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白い母親の手に引かれて自宅へと歩いていた。
鼻と口を覆っている白くて清潔なマスクの中は熱い息がこもり湿度が高かった。
頬の一番高い部分は赤くなっており眼は少し充血気味で光って見えるのは涙が滲んでいるせいだろう。
伝染性の風邪をひいたせいで頭も痛かったがそれよりも痛かったのは二の腕に刺された細い針だった。
こうなったからには覚悟を決めていたつもりだったのにいざ鈍く光る切っ先の尖ったそれを前にしたらやはり強くはいられない。
背中を擦りあやしてくれる母親の胸に顔を埋め大泣きをしながらその痛みに耐えた。
診察が終わっても泣き止まない俺に母親は通り掛った喫茶店を指差して言った。
「ココア、飲んで帰ろうか?」
風邪のせいなのか、泣いているせいなのか。多分両方のせいで盛大に鼻水を垂らしていた俺はぐちゃぐちゃの顔で大きく頷いた。
カラン。
ドアの角に付けられた鐘が鈍い音を響かせて来客を知らせる。
寒い通りとは反対にストーブの焚かれた店内は暖かくここは楽園か?と心の中で思った。
テーブル席に行こうとする母親の手を引っ張り指差したのはカウンター席。
長い一本足に取り付けられた丸い座面がその時の俺にとってはすごく輝いて見えて座ってみたいという好奇心が沸いた。
戸惑う母にカウンター内に居た店長が手の平を差し出して席を勧める。
バイトらしき若い男がカウンターから出てきてイスを引いてくれた。
目を輝かせて見上げる俺の脇に手を入れて抱き上げると憧れの丸い座面に座らせてくれる。
くるくると回るそのイスの不安定さといつもとは違う目線の高さで見る世界に興奮は最高潮に達した。
しばらくして出されたココアを俺は忘れない。
ミルクの効いた温かく甘いそれは俺の体だけでなく心までも温めて、隣に座る母も同じ気持ちだったようで優しく微笑みかけてくれた。
目を閉じれば今でも鮮明に思い出せるその記憶はもう十年以上も前の話だ。
あの時風邪を引いていた俺は18歳、高校3年の秋を迎えていた。
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