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「君が、オネーギン?」
ベッドに移動して、さらに何度か愛し合ったあと。恋人は優しく那波人の髪を撫でながら、今やっている仕事について話してくれた。
「僕もいつまでも、お話の中の王子様じゃないってことだよ」
そう言う彼はなんだか嬉しそうだ。王子役が多かった彼には、新しい挑戦ができることが楽しみなのだろう。
ずっと、ぼくの王子でいてくれていいのだけど。そんな言葉が頭をかすめたが、言葉にできるわけがない。
「難しい役どころだろう? 失敗するとただのクズだからな、オネーギンは」
バレエ『オネーギン』の主人公・オネーギンは自分に想いを寄せてきた田舎娘を手ひどく振り、たわむれに友人の婚約者と親しくする。彼はそのせいで友人に決闘を申し込まれ、決闘で友人を殺し、数年後、結婚して美しくなったかつて振った田舎娘を見て、夫ある彼女を口説く。
ただの悪者にならないような演技力が求められる役どころだ。
「そうだね」
「まあ、君は気品があるからな」
「伊達に王子ばかりやってないからね」
観に行きたいな。そんな言葉が口にのぼりそうになって、那波人は息を止めた。どうせ、予定が空いているわけがない。
「オネーギンは、いつも遅すぎるんだ。自分のことばかり考えていて、それでいて自分の望みを知らないから」
ジークがぽつりと言った。
自分のことばかり考えていて、それでいて自分の望みを知らない。
那波人は自分に言われたような気がして、恋人の言葉を心の中で繰り返した。
「明日帰るの」
「うん。朝早いから、君は寝てていいよ」
寂しい、という言葉を喉元で飲み込んだ。そんなこと、言っても仕方がない。踊れる肉体には時間制限がある。お互い仕事があるのは、いいことだ。チャンスはいつまでも来ないのだ。
それでも那波人がぎゅっとシャツの裾を握ると、その気持ちが伝わったのか、ジークは那波人の頭を抱き込んで額にキスを落とした。
「クリスマスは無理だけど、一月にはまた来るから。そうしたら、ゆっくりふたりでクリスマスパーティをしようね」
「うん……」
クリスマスは那波人も、『海賊』の公演が入っている。仕事に集中していれば、あっという間だ。
わかってはいるのだけど。それでも本当は離れがたいなんて。いつのまに、こんなに彼のことが好きになってしまったのだろう?
恋人は那波人の唇を親指の腹で撫でて、優しくキスをした。視線を感じて、那波人は目を開けた。
思いつめたような眼差しと目が合った。
「何?」
ジークは黙って、那波人の左手をとった。そのまま、指の付け根にくちづけた。ちょうど、薬指のあたりだ。
王子役ばかりやってきた恋人は、そんなしぐさも様になっている。まるで王子にプロポーズされる姫君のような気持ちがしてきて、那波人はドキドキしてきた。
「……今度、時間ができたら僕の実家に来ない?」
「実家、って」
「ハンブルク」
那波人は、彼の実家に遊びに行ったことが一度だけあった。学生のころだ。まだ、こんなふうに恋人どうしでもなかった、無邪気なころ。
だが、今行ったら友人のようには振る舞えないかもしれない。それもあって、あえて行くこともなかったのだけれど。
那波人の表情に、迷いが出ていたのかもしれない。恋人は手を離すとその手で那波人の髪をやわらかく梳いて、苦笑した。
「ごめん、忙しいよね」
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