目覚めよと呼ぶ声が聞こえ

1/3
前へ
/3ページ
次へ
 ターンを繰り返して、那波人は鏡の中の自分を見つめる。違う、『海賊』のビルバントは品があるだけではない。まずはワイルドさだ。もちろん海賊だからといって、まったく品がないわけにもいかないけれど。  そこまで考えて、那波人はふっと頬をほころばせた。数年前、バレエ学校の卒業公演でも『海賊』を演じたのだった。あのときは、恋人が主役のコンラッドで自分がその部下のアリだった。ジークもやたらと気品に満ちた海賊だったっけ。最期まで主人に忠実なアリを演じることができたのは、自分でも誇りだけれど、今度は主人を裏切る役だ。それはそれで、自分らしい気もする。  隣室からピアノの音が聴こえてきて、那波人は耳を澄ます。  なつかしい。  バッハの、『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』、か? クリスマスが近くなると、恋人もよく練習していたように記憶している。  弾いているのは隣室の大学生だ。  バレエ学校を卒業してすぐ、ロンドンのバレエ団に就職して三年。ずっと、この芸術家ばかりのフラットに寄宿している。夜遅くまで音楽をかけていても怒られないので、暮らしやすい。  那波人は目を閉じて記憶をたぐった。  ピアノの音が聞こえると、寮の部屋を出て、彼を探しにいく。そうして、談話室でピアノを弾いている恋人の後ろ姿をを見ているのが好きだった。  歌詞はなんだっけ。  ドイツ語だから、すぐに出てこない。那波人が軽くハミングしていると、その上にやわらかなテノールのドイツ語が重なった。  キリストが接吻するという内容の歌詞に合わせるように、右手をとられその甲にくちづけを落とされる。那波人は顔をそちらに目をやった。  深い微笑みをたたえた、冬の湖の色の瞳。太陽の雫を落としたような黄金色の髪。  ジークフリート。今はパリに住む、離れて暮らす恋人の姿だった。 「ああ、ジーク。来てたのか。声をかけてくれたらよかったのに」  合鍵なら渡してあるのだ。そもそも、今夜訪ねてくるという話だったし。  お互い、別々の国のバレエ団に就職することになって、それ以来遠距離恋愛なんてものを続けている自分に驚いてしまう。いつも、約束の前にはずいぶんとそわそわしている自分にも。 「あ、いや。練習している姿がきれいだなって。見惚れてた」  そう恋人が言うのを聞いて、那波人は微笑んだ。彼はいつまでも自分の一番の賛美者で、それが少しおもはゆい。 「おいで」  ジークはコートを脱ぎ落とすと、那波人の腰に手を回す。 「ただいま、ナハト」  那波人はくすぐったい気持ちになった。 「ぼくのうちなのに」  その言葉はすぐに、恋人の唇でふさがれた。最初は、軽い挨拶のように。やがて、情熱的な愛の言葉のように。 「……ッ、……っあ、……ん…ジー…ク」  那波人の感覚を熟知した舌づかいに、たやすく官能を刺激される。 「会いたかった、ナハト」  耳元からもそんな情熱を注ぎ込まれて、那波人はすっかり骨抜きになってしまう。もう力が入らなくて、腰を抱き寄せられていなければとっくにくずおれてしまいそうだ。  那波人はそっと恋人のシャツの下をたくしあげ、ベルトに手を伸ばした。恋人が戸惑う気配がする。 「しないの?」 「あっ、え、いや、僕、外から来たばかりで汚いから」  那波人は苦笑する。それを言うなら自分も汗くさいだろう。  一緒にシャワーを浴びることを提案しようと想像して、せりあがる欲望に気づく。待てない。それを知らせるために、恋人に腰を押しつけた。 「ごめん、待てない。今すぐほしい。だめ?」  恋人が顔を赤くした。 「僕だって……っ」  恥ずかしそうにそう早口で言う恋人がかわいらしくて愛おしい。那波人は手早く恋人のベルトを引き抜いて手を差し込んだ。 「あっ、ナハト…っ」  那波人が軽く触れると、手の中のものはぐんと硬度を増した。ごくりと、恋人が喉を鳴らす。 「ジーク、かわいい」 「あッ、ん、君も……、待って」 「あ、」  ひょいと抱き上げられるとそのまま、ソファの上におろされた。バレリーノは、こういうところの身が軽い。いきなりだとちょっと驚くんだけど。 「ナハト、脱いで」  ぴたりと体に添ったレッスン着は脱がせづらい。焦りながら脱がせてくる恋人を手伝いながら、那波人は全裸になった。  そのまま足を広げて、恋人に見せつける。獲物を狙う獣のような瞳になった恋人の視線が、心地よい。 「来て。準備、できてるから」  ささやいて、足を恋人の背中に絡みつけさせた。 「ナハト……っ」 「あ、んッ」  すぐに自分の命令に従った恋人が、深く沈み込んできた。恋人の首に回した腕に、力が入る。 「ナハト、好き、すき、すき、愛してる…っ」  振動とともに小刻みな愛の言葉が耳元に注ぎ込まれてくる。 「うん…ッ、あっ、あ、ああっ、あン、あっ」  じわじわと、身体の内側から歓びがわきあがってくる。指先に力が入った。  声が止まらない。興奮して涙がこぼれた。今まで保っていた主導権を、恋人に明け渡してしまったことがわかる。結局いつもそうなるのに。 「ジークっ、……すき……」
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加