目覚めよと呼ぶ声が聞こえ

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 ふと空気が動く気配がして、那波人は目を覚ました。朝の冷たい空気が頬をさす。  着替え終わっている恋人が、コートスタンドのところに立っている。ささやくような鼻歌は、昨日のバッハか。  半分覚醒していない頭で、那波人はぼんやり恋人を見つめた。  あれは、ぼくのコートじゃなかったっけ……?  視線に気がついたのか、恋人が振り返る。 「ごめん、起こしたかな」  彼が近づいてきて、額に唇が寄せられた。  那波人は手をのばして首元に絡みつかせると、そのままキスを落とした。 「……んっ……」  まるでこのまま始まってしまいそうな情熱的なくちづけに、身体が簡単に熱をもってしまう。  それに気づいた恋人の指先が、パジャマの上から彼をなぞった。 「大丈夫なの、電車の時間」  もうそうたずねながらも、濡れた声が出てしまう。 「一本後でも、ぎりぎり大丈夫」  そうささやく恋人がすっかりその気になっていることを感じ取ると、那波人は腰を浮かせて恋人がパジャマを剥ぎ取るのを手伝った。  昨夜の情熱が残る身体を恋人が扱いやすいようにさしだすと、恋人はすぐに入ってきた。 「好き、好きだよナハトっ……」  貪り合うような情熱的な時間が終わって、那波人は荒い息をつく。 「あの、ごめん。やるだけやってさっさと帰る男みたいなんだけど」  那波人がパジャマをかきよせて羽織ると、恋人は情けない顔で言った。もうあまり、時間がないのだろう。  那波人は笑って、恋人に手を振った。 「大丈夫、行きなよ」  本当は駅まで見送ってもいいのだ。ただ、その体温が離れてゆく瞬間に、いつになっても耐えられないだけで。ユーロスターが出ていく、セント・パンクラス駅からひとりで帰ってくることを思うと、その時間に胸が押しつぶされそうになるだけだ。 「うん、またね」  がちゃりと玄関の閉まる音を聞いて、那波人は思い直した。せめて、姿が見えなくなるくらいは見送ろうか。  パジャマの上にコートを羽織ると、慌てて階段を駆け下りた。  外に出た途端に、寒さに一瞬で目が冴える。 「ジーク」  恋人は道を渡った向こうにいた。角で信号が変わるのを待っているようだ。その姿を目で追った。  背が高く本当に凛として美しい。何度見ても惚れ惚れとしてしまう。 「あ」  振り返った恋人と目が合った。  途端に、恋人が破顔するのがわかった。見つかってしまった。まあ別に、嬉しそうだし見つかってもいいのだが。  恋人が自分の方に体を回して、胸元に手を当てた。バレエのマイムだ。台詞のないバレエにおいて、いくつか意味が決まっているジェスチャーがある。胸に手を当てるのは、『わたしは』。  次に彼は手を那波人の方に向ける。『あなたを』、だ。それから、両手を心臓にあてる。  『愛しています』  那波人は頬が熱くなるのを感じた。もちろん、周囲の人はバレエのマイムなんて知らないだろうが、彼にとっては、大声で言われているのと同じだ。  恋人は、自分のコートのポケットを叩いた。なんだろう。  何度もポケットを指し示す仕草をするので、那波人は自分のポケットに手を入れた。そういえばポケットが不格好にふくらんでいる。  手が、硬いものにぶつかった。取り出す。青いリボンでラッピングされた、小さな箱だ。 「……?」  恋人が手を上に挙げた。『誓います』だ。それから、左手を見せて、左手の薬指を右手で指さすしぐさ。  『結婚しましょう』  那波人は思わず、取り出した箱を見つめた。この大きさは、もしや……。  慌てて、ベリベリと包装を破った。 「待て待て待て……」  リボンと包装をポケットに突っ込んで、紙箱のふたを外す。中には紺色の、ベルベットのような高級そうなケース。  ふたを開けると、そこには金色の指輪が輝いていた。  真意をたずねようとして、視線を恋人に戻す。目が合うと、恋人はさきほどのマイムを繰り返した。  『愛しています』『誓います』『結婚しましょう』 「え、……」  呆然とする。何を、考えればいいのだろう。  『結婚しましょう』?  そうだ、あのバッハの曲は、結婚式の曲ではなかったか。  彼の国では同性どうしでも結婚できることは知っている。しかし、本当にそういう意味だろうか?  恋人がゆっくりと歩いて戻ってきた。 「ナハト、泣いてるの?」 「え?」  恋人の指が頬に触れた。 「濡れてる」  言われて、自分の頬が濡れていることを理解する。意識すると、止まらなくなった。  恋人がそっと、肩に手を回した。  恋人の体温はあたたかくて、ほっとする。本当にこれが、ぼくのものなのだろうか? 「ねえ、ジーク。本気?」  恋人は微笑んだ。 「僕が、本気じゃなかったことがある?」  そう言われてしまうと、たしかにそんなことはなかった。彼に愛されているということは、疑いようもないことだ。それをこんな形で見せられるとは、思ってもみなかっただけで。 「ナハト。返事は?」  少し不安そうな顔をして、ジークが覗き込んできた。美しい、ぼくの冬の湖。ぼくだけの。 「……君は、ぼくが嫌で泣いていると思うの?」  恋人の表情がやわらぐ。 「ああホント、君ってシャイだなあ」  恋人は嬉しそうに微笑んで、那波人の額に自分の額をおしあてた。  抱きつくと甘やかな恋人の声が落ちてくる。  ねえナハト、今度の休みはハンブルグ行きの飛行機を取って。両親に、結婚するって紹介するから。  君のところは、いつが都合がいいのかな? ああ、そんなに泣かないで。せっかくの君の美しい顔が、腫れてしまうよ……。 END
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