98人が本棚に入れています
本棚に追加
/67ページ
11月10日(水)ー Day10:水中花
「……いい? よく見てて」
リビングのローテーブルに耐熱ガラスのティーポットを置いて、俺は慎重にヤカンの湯を注いだ。コポポポ……と小さな音を立てて熱湯が満ちていく。大ぶりの丸いポットの上部が、ほわほわと湯気で曇った。
しろほしがテーブルに鼻をつけるようにしてじっと見ている。
「あんまり近づくと火傷するよ」
俺はヤカンを片付けて、しろほしの身体をそっとテーブルから離した。そのまま彼の肩を軽く抱いて、ふたりでティーポットの様子を見守る。
ポットの底にしずんだ茶褐色の塊――パッと見た印象ではクルミのような形をした丸い固形物が、湯の中でゆっくりほどけていく。同時に淡い碧色のグラデーションが広がった。ポットの蓋は開けておくのがいい。ジャスミン茶の香りがふわりとのぼってきた。しろほしが、すん、と鼻を鳴らす。
「いい匂いだね。これは工芸茶っていってね、中国のお茶だよ」
湯の中でゆらゆらと揺れながら開いたのは、いくつもの小さな白い花だった。湯の対流にのってふわふわとひろがっていく。白い花の根本には、こっくりとかわいらしい山吹色の花が、まるで小さな座布団のように収まっていた。
「えーと、白いのは、ジャスミンの花。黄色いのは、マリーゴールド」
俺は茶葉のパッケージについていた説明書を読み上げる。
商品の名前は「天碧花」。ティエン・ビー・ファ、とルビがあった。きれいな名前だ。
うちの会社で立ち上がったばかりの企画の商品サンプルだった。世界各国のオシャレなライフスタイルをステキな動画で紹介し、企業からの広告収入や物販で収益を上げるというコンテンツビジネス……だとか。米国のナントカというベンチャー企業と提携するらしい。広報部では俺の担当案件なのに、まだウロ覚えだ。
この豪華な工芸茶はフランスの有名な茶葉専門店の品で、そのステキ動画で紹介する製品のひとつだ。毎シーズン完売する人気シリーズだという触れ込み。俺も人並みにコーヒーやお茶は好きだが、ちょっとびっくりするような値段がついていた。オシャレなライフスタイルを求める消費者の、豊かな財力を見せつけられる思いがする。
数分かけて、水中花が開き終わった。大きなティーポットいっぱいに広がったジャスミンの花と、透きとおった碧色の茶に見とれる。
「ちょっと飲んでみる? しろほしは猫舌だろうから、アイスがいいよね」
俺はキッチンに立って、食器棚から耐熱グラスをふたつ取り出した。ひとつには冷凍庫の氷をいっぱいに入れる。グラスを手にしてリビングに戻ると、なんということだ、しろほしがティーポットに指を突っ込もうとしているではないか。水中花に触ろうとしているのか。俺はビックリ仰天した。
「何やってるんだ、しろほし! 火傷するよ!」
俺の大声に驚いたしろほしが、かえって指を熱湯に突っ込んでしまう。そして「あっちいーっ!」という顔で手をひっこめた。俺はしろほしに駆け寄って、彼の手をつかむ。とっさに、グラスの氷にしろほしの指を差し込んだ。
「ごめん、熱いって知らなかったもんな」
氷の冷たさが嫌なのだろう。しろほしはすぐにグラスから指を抜いて口に入れてしまう。猫は、傷口は舐めて治すもんな……。
「見せて。冷やさないと」
俺は無理やり、彼が口にくわえた指を引っ張り出した。ちゅぽっ、と音をさせて指先が出てくる。大火傷ではないが、指先が赤くなっていた。そして俺はこのとき、何を血迷ったのか――、彼の指を、ほんのり赤くなった、細くてきれいな、彼の唾液でてらてらと光る指先を――自分の口に入れてしまった。
しろほしは目をまるくして、自分の指を舐める俺を見つめている。しかし抵抗はしない。しろほしと目が合う。俺はしばらく、しろほしの指を舐めながら彼と見つめ合った。どんなシチュエーションなんだ。急におかしくなって、ふっと笑いが出てしまう。
わざと、くわえた指先を舌でなぞってみた。しろほしがくすぐったがって笑い声をあげる。かわいい顔立ちからすればいくぶん低くて、ちょっとハスキーな声だった。逃げようとするのをつかまえて、我慢できずにキスをする。しろほしも満足そうに、俺の背中に手をまわしてキスに応じてくれた。
どうしたらいいのだろう。
俺は、しろほしのことが好きになってしまった。もちろん、恋愛、性愛、という意味合いで。
――Day11:「からりと」に続く
最初のコメントを投稿しよう!