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久しぶりにがっつり残業してしまった。しろほし、怒ってるかな。
夜遅い電車は混んでいた。緊急事態宣言が明けたせいか、ちょっと酒臭い乗客もいる。
よれよれの気分で自宅の最寄り駅に着いた。ワックスをつけすぎた前髪が眼鏡のレンズに触れて、ギトギトとアブラっぽい汚れになっているのも不愉快だ。改札を出て、俺は思わず大きなため息をついた。何か、総菜でも買って帰るか……。
駅の構内は人でごったがえしている。人波に乗り損ね、向かってくる人を避けきれず、肩をどつかれながら駅の外に出たところで真正面から人にぶつかってしまった。
「すみません」
うつむきがちに謝って身体を退こうとしたら、ぶつかった人がまたぶつかってくる。さすにちょっと頭に来て文句を言おうとしたら――、ぶつかってきたのは、しろほしだった。
「しろほし!?」
人がぶつかってきたのではなく、しろほしが飛びついてきたのだ。
「えっ、駅まで来られたのか。迎えに来てくれたの?」
しろほしは得意げにうなずいて笑う。もしかして、夕方からずっとここで待っていたのではないか。俺は心から申し訳なく思い、彼が危ない目に遭わなくてよかったと思った。
「しろほし、ごめんな。待たせただろ。怖くなかった?」
別に? という澄ました顔をされた。そして俺の手を引いて歩き出した。俺は今日いちにちの残念だったことが、心底どうでもよくなった。どれも大したトラブルではなかったし、悪いことは何も起きなかった。
それどころか、しろほしが迎えに来てくれたのだから、今日はいい日だ。
アパートまでの道すがら、近所の住宅の庭に植えられた金木犀の匂いに気づいた。そうだ、ここに金木犀があって、少し前からいい匂いがしていたんだ。今朝は余裕がなくて気づかなかったな。
「しろほし、いい匂いだねえ」
しろほしが首をのばして、夜気に漂う金木犀の匂いにふんふんと鼻をならす。俺たちは手をつないだまま、家に帰った。
―― Day9:「神隠し」に続く
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