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俺は今日もどうにか18時の定時で仕事を上がって、急いで家に帰った。俺としろほしが暮らすアパートは、会社から地下鉄で西のほうへ30分。昨日しろほしに鍵を持たせたが、果たしてどうしてるかな。それだけが気がかりだった。
アパートの玄関扉の前に立つ。ちょっと迷って、鍵を挿さずにそっとドアノブを引いた。
ガツン、と手ごたえ。施錠されている。俺は拍子抜けして、ガチャリと鍵を開けて中に入った。
「……しろほし、ただいま」
しろほしはいつも、俺が帰る気配を敏感に察して、さもそこに偶然居合わせたふうを装って玄関で待っていてくれた。しかしそこには、しろほしはいなかった。俺はつかの間、ぼうっとして玄関に立ち尽くした。
そうだ、しろほしは、いなくなったのだ。
彼に買ってやって、履きかたを教えてやったスリッポンも玄関口になかった。猫が人間になって戻ってくるなんてありえない。猫の恩返しかよ。何か夢でも見ていたのかな。俺はふっと気が抜けて、猛烈に寂しくなった。またしろほしを探しつづける毎日に逆戻りか……。そう思ってのろのろと靴を脱いで上がりかけたときだ。
ガチャガチャと鍵をまわす音がするので俺は飛び上がらんばかりに驚いた。ガチャ、ガチャ、とサムターンが縦になったり、横になったり。もしかして――、
俺は勢いよくドアを開けた。そこに、ドアに弾き飛ばされそうになってよろけた――、しろほしがいた。
ブルーグリーンの目を驚いたように見開き、俺を見て、嬉しそうに笑う。人間だから、笑えるんだ。
俺が、はじめてしろほしの「笑顔」を見た瞬間だった。俺は思わず、しろほしを玄関内に引き寄せて抱きしめる。しろほしは俺より少しだけ小柄だ。
「ただいま。……散歩に行ってたの?」
身体を離すと、しろほしはいつものまっすぐなまなざしで、俺を見上げてくる。それから、「外に出よう」とでもいうように俺の手を引く。俺は仕事用の鞄を玄関口において、しろほしといっしょに外に出た。
「どこにいくの」
いいからいいから、というようにしろほしは俺の手をひいて、アパートの階段を上っていく。屋上についた。屋上にはアパートの住人ならだれでも出入りできて、洗濯物を干せるスペースがある。しろほしは申し訳程度についている腰高のフェンスをひらりと飛び越えて中に入っていく。俺はフェンスの扉の鍵を開けて(部屋の鍵と共用)、しろほしの後に続いた。
「しろほしは、ここにいたの?」
俺は、屋上に置かれた安っぽいベンチに腰かける。夜風はすっかり秋だ。遠くでかすかに、電車がタタンタタン、タタンタタン……と通り過ぎていく音がした。小さなアパートだから見晴らしもたいしてよくない。近隣の住宅やマンションの明かりがずっと続くだけだ。それでもこんなふうに、夜気に触れるのは久しぶりかもしれない。
曇りがちで星も見えない夜空を見上げて大きなため息をついていると、ふわっと膝に重みを感じる。しろほしが寝そべって、上半身を俺の膝に乗せてきたのだった。こういうしぐさは猫のときと変わらない。
俺はしろほしの頭をなでた。なぜ人間になって戻ってきたのかはわからない。それでもよかった。俺はしろほしと過ごすこの時間が、たまらなく愛おしかった。
――Day3:かぼちゃ に続く
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