旅立

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旅立

「今、どこにいるんだよ……」  哲也(てつや)がいない。  目覚めたら、キャリーバッグと一緒に消えていた。もちろん、アイツが描いたラスト10頁の原稿も、あの中だ。  どういうつもりなんだ。ふざけるな。  家財道具のないガランとした部屋の中。朝まで包まっていたコートが、床の上で先鋭的な影を作る。仰ぎ見ると青空。カーテンのないベランダから差し込む光がやけに眩しい。  俺はゆっくりと伸びをして、シンクに向かうと半分空のペットボトルの中身を捨てて、蛇口から新しい水を満タンに詰める。それを口に含んでうがいをし、もう一度詰め直した水を半分飲んだ。最後に、両手で顔をザブザブと洗う。 「洗面台に行け。いつも言ってるだろ、進也(しんや)」  うんざりした声に顔を上げる。綺麗好きの同居人は、シンクは食材を扱う場だからって、トイレの後の手洗いはもちろん、洗顔も歯磨きも許さなかった。気にしない俺が特別無神経って訳じゃないと思う。 「神経質なんだよ、お前は……」  俺は呟いて、蛇口の栓を閉める。  そんなつまらないことで言い争ったりもしたっけ。  背後の1DKはシンと静まり返り、俺以外の気配はない。窓の向こうで、スズメ達のさえずりが刹那近づいて、遠ざかっていった。  8年住んだ部屋を引き払う。俺達2人のアルバイト料で暮らすため、血眼になって探し出した安物件。物流のトラックが走ると隙間風の入る窓。1度切れたら半月は放置される廊下の蛍光灯。内側の取り出し口が開いたままのドアポスト。日焼けして飴色のマーブル模様になった壁紙。ちっとも快適な棲み家じゃなかったけれど、2人で追い続けた夢の残り香が至る所に染み込んでいる。 『住み込みになりますが、可能ですか』  先月届いた1通のメール。ようやく巡ってきた千載一遇のチャンスだ。一も二もなく俺達は飛びついた。大慌てで引っ越しの準備を進めて、2人揃って旅立つ筈だったのに……どうして、俺1人で明け渡さなきゃならないんだ。  一昨日、中古の家電と不要品をリサイクルショップに売った。その金で、景気づけに焼肉を食べて、残りは3万6千円。東京までの電車代と新天地での生活資金に充てようと話した。けれど、翌朝――アイツが消えた後、俺の荷物の中に突っ込まれていた茶封筒を覗くと、きっかり1万円だけ減っていた。 『実家に行く。明日には戻る』  茶封筒の宛名面に、アイツのクセのある細長い文字が躍っていた。  コートの横に、枕にしたスポーツバッグと、2人の夢を詰め込んだキャリーケースが並ぶ。床の上に置いたスマホの画面は暗いまま。出発日なのに、アイツからの連絡はまだない。
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