84人が本棚に入れています
本棚に追加
1【こりない浮気さん】
「もうしない。もうやりません。だから、許してください。イチヤさん!」
額を床につけて謝っても、イチヤさんは許さなかった。むしろおれの後頭部に足をのせて、もっと深く下げろよ、と言った。
「まあいい、言い訳ぐらいなら聞いてやるか。がんばっておれを納得させてみろよ」
イチヤさんはどこからも上から目線で、弱い立場のおれは仰ぎ見るしかない。はたから見れば、主と下僕のような構図だ。
「イチヤさんを振り向かせたかった」
もちろん、言い訳だ。誘いに断れなかっただけ。口は簡単に嘘を吐く。
イチヤさんは目を細めて、声を荒げた。
「振り向くどころか、あきれるわ。次!」
一蹴されてしまう。
「イチヤさんが大事すぎて」
的な言い訳には、鼻で笑われた。
「そういうのは大事にしているとは言わない。むしろ、傷つけてる」
「傷ついたの?」
「当たり前」
額が引きつるくらい目を開けてしまうのは仕方ないと思う。そんな傷ついたとか、はじめて聞いた。
イチヤさんも傷つくのか。感情を表に出さず、たんたんと生きているように見えたイチヤさんも、苦しむことがあるのか。
「お前さ、おれをサイボーグか何かだと思っているだろう?」
「違うの?」
イチヤさんは目をつむってから、ため息を吐いた。
「おれはお前と同じ、プライドが高いだけの男なんだよ。年下だけじゃなくて、いつもお前を見下ろしているのは」
横顔が歪んだ。唇をかみしめて何かをこらえているのだと思う。
「本当の気持ちを吐き出したくねえからだよ。女々しくなりたくねえんだよ。それくらいわかれよ、浮気野郎!」
また、肩に一撃くらった。同じ男だとケンカはやっかいだ。どちらも腕っぷしが強いから、殴りあいとなってしまう。
でも今日は、抵抗しないことに決めた。殴りたいだけ殴ってほしい。思いのまま。おれが傷つけた分。
「今度浮気したら、顔を見られなくしてやる」
「うん」
「それで、近所に男と付き合っていることばらしてやる」
イチヤさんはプライド高い男だから、そんなことができるわけない。
しかし、おれは「わかった」と答えた。
「二度とするなよ」
イチヤさんは殴ることをやめ、立ち上がった。
冷静になってみると、近所に公表するのはいいかもしれない。そういうわけで、もう一回くらい浮気もありだろう。
なんて想像を膨らませていたら、「ニヤついてんじゃねえ」もう一発、鼻にくらった。
〈おわり〉
最初のコメントを投稿しよう!