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3【包丁とカボチャ】
カレンダーの10/31のところに意味ありげなマークがしてあった。こんなことをするのはおれ以外にイチヤさんしかいない。
もしその日が誕生日なら、「かわいいことしやがる」と顔がほころんで終わり。
しかしあいにく、その日には心当たりがなかった。
おれの誕生日は少し先の方だし、イチヤさんの誕生日はもう過ぎた。
ということは何かの記念日かもしれないんだけど、何の日だかは思い当たらない。
記念日だとしたら、やばいよなあ。
楽に想像できる。「忘れてたのかよ!」とイチヤさんにキレられて見事にぼっこぼこにされるおれの姿が。
横たわる自分を想像したら急に身震いしちゃった。
カレンダーの前で悩むも答えはでず。女の子からの着信ですっかりカレンダーのことも、記念日のことも頭から吹っ飛んでしまった。
10/31。デジタル時計が知らせる日付けに、おれの記憶は呼び覚まされる。
まどろんでいた脳もちゃんと起きて、今の状況を考える。
浮気したあとでおれは全裸だ。シーツは乱れ、女の匂いが充満してる。
幸いなことにイチヤさんは帰ってきていない。
もし記念日で浮気をしていたら、ぼっこぼこどころの騒ぎじゃない。お触り禁止の、へたしたら絶交になってしまうかも。それだけは避けたい。
とりあえず、シャワーを浴びようと寝室の扉を開けた。だれもいないと決めこんだリビングからキッチン。
開けなければよかったと後悔する。エプロンをまとったイチヤさんの後ろ姿が今日だけは恐ろしかった。
「イチヤ、さん?」
暗闇に浮かび上がる後ろ姿はぴくりとも動かなかった。とんとんと腕を上下させるだけ。
何かを切っている?
近寄ってから肩ごしで見下ろすと、まな板の上で包丁が振り下ろされた。
切っているのはあざやかな黄色と緑を持つカボチャ?
「イチヤさん?」
呼び掛けても反応はない。
抱きついても。うなじに唇を寄せても。耳元でささやいても。こりって噛んでみても。胸板をまさぐっても反応はなし。お尻を触ってもダメだ。
機械のようにひたすら包丁を振るっている。
カボチャを切り終えるとようやく、イチヤさんは動きを止めた。
しかし包丁を離す気配はなく、まな板を一心に見つめていた。
「イチヤさん、どうしたんだよ!」
むりやり振り向かせる。イチヤさんはおれを見ても何の感情も抱いていないような顔で、「うるせえ」とひとこと言った。
「うるさくなんかない。イチヤさん、どうしたんだよ? いつもみたいに怒って、殴ったり、蹴ったりしてくれよ」
「うるせえな。疲れたんだよ」
疲れた?
「今日だけは賭けてた。お前が浮気しなかったら、おれは我慢する。もし浮気したらそのときは……」
なぜか握り締めたままの包丁が気になった。
「刺す……とか?」
震える声でたずねたら、イチヤさんはにたりと笑う。マジっすか。おれ、刺されるって。
頬に手を当てて絶望するおれに、目の前の人は盛大に吹き出した。
「刺すって。そんなことはしねえよ。お前の嫌いなカボチャを刻んで、毎晩、おかずにしてやろうと思っただけ」
何だ。たったそれだけのことか。
イチヤさんはくるりと背中を向け、次のカボチャに取り掛かった。
「でも、まだ信じてる。お前が浮気野郎から卒業するって」
今まで何度も怒鳴り散らされてきた。イチヤさんだけじゃない。昔の女もそうだった。
浮気したんだから当然だけど、浮気した男にそんなやさしい言葉を与えたら、裏切るのは難しくなる。
「イチヤさん、今度、おれが浮気したら本当に刺していいよ」
「やめろ、お前にはムリだ」
何だよ。さっきは信じてるって言ったくせに。
「今日の浮気はこれから見つける予定だから」
「つ、次からでお願いします。ぜったいにもうしないから」
「そんな言葉、信じねえからな」
イチヤさんは楽しそうにくすくす笑った。
こうして10/31をさかいに、おれは浮気を減らした。
それはだれかに誘われると、女神のようにイチヤさんの顔が現われて「浮気したら刺すぞ」と笑うからだ。
〈おわり〉
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