end【浮気さんのさいご】

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end【浮気さんのさいご】

 「たっだいまー」とのんきに帰ってきたら、薄暗い部屋のテーブルの上で置き手紙を見つけた。  「あたためて食べて」とか「ちょっと遅くなる」とかの伝言はスマホが基本だ。いちいち置き手紙で伝えるのはおかしい。  それにシンプル好きのイチヤさんにしては遊びすぎな気がした。  おれだったら似合いそうだけど(読まれたらそっこうで、握り潰される自信がある)。 「えーと」  電気を点けて読んでみる。チラシの裏に書かれた、右上がりで達筆な文字は、おれの心臓を止まらせるような破壊力があった。 「『しばらく帰らない。コーヒーのかえはキッチンの一番端のなか。トイレットペーパーはなくなりそうだから買っておけ。イチヤ』!」  たった数行を何度も読み返してしまう。「しばらく帰らない」その意味を理解すれば、「部屋を出ていく」ということだ。 「え? 嘘、何?」  一人でつぶやきながら、紙を片手に歩こうとしたら棚に足の小指がぶつかる。マジで痛い。  部屋で足をさすりながら考える。「どうして」の部分はわからないけど、心当たりは五万とある。  もしかしたらイチヤさん。とうとう見限ったんじゃないだろうか。浮気ばっかりして、それでもやめられずにいるおれに。  何だかんだ殴ってでも許してくれるイチヤさんに、安心していたんだ。だからすごく混乱している。  人を追いかけるにはどうしたらいいんだろ。ちゃんと謝るにはどうしたらいいんだろ。がらにもなく真面目なことを思う。  部屋のかたすみで丸くなっていると着信音が軽やかに鳴った。沈黙した部屋にはすごい場違いな曲。  でも、「逢いたい」系のバラードじゃなくてよかった。今聞いたらぜったいに泣いてしまいそうだ。  一度スマホを確認しただけで、おれは出なかった。着信音からすでにイチヤさんじゃないことはわかっていた。もういいやと、スルーした。  昼夜、いつ飯を食べたか、あんまり記憶がない。辺りにあった菓子をつまんだかも。からのゴミが転がっていたからそうなんだろう。  体が鈍くて仕方ない。寝室にも戻らず、ソファの上に転がった。  暇があるのにやることがない。女の子と遊ぶことを引けば、おれは無趣味な人間だったらしい。  部屋でじっとしている時間なんて眠っているときくらいだ。こんな夜を知らなかった。  おれが帰らない夜、イチヤさんは一人何を思っていたのか。  怒っていた? もしくは泣いていた?  どれもうまく想像できない。イチヤさんの孤独を知らないから。  クッションに顔をうずめて淋しさを埋めようとする。このぬくもりがイチヤさんだったらいいのにと考えるのは“孤独”なんだろうか?  イチヤさんの言う、しばらくが経った。この一週間のことは思い出しようがなかった。  ひとことで表せば、ただ寝て起きるだけのつまらない日々。  周りのダチが「大丈夫かよ」「やつれたな」と心配してくれたが、最後には「女とやりすぎなんだよ」と決め付けられ、おれのつるむやつにまともな人間がいないことがわかった。  イチヤさんは学校も休んでいるようだった。同じ大学にかよっているはずなのに、イチヤさんの友達も知らない。  会いにいこうと歩きだすが、足を止める。次の一歩が踏み出せない。まさかだ。イチヤさんの行きそうなあてがなかった。  ついに頭を抱え、二人の部屋に戻ってきてしまう。結局はこの部屋しか知らないんだ。  一週間も掃除していないとほこりが浮いて見える。おれ一人しかいなくたって、部屋は勝手に汚れていく。  「掃除しろ」と蹴ったり、服を脱ぎ散らかして「子供か、お前は」と頭をこづいてくれる人はもういない。 「イチヤさん」  ジーンズを脱ぎかけた姿で床に手をついた。おれは情けない男だ。イチヤさんがいないとすべてが意味のないものになっていく。  おれは早く気づくべきだった。さんざん浮気を繰り返していた親父が、母親の亡くなった日から何も手につかなくなったこと。  あの人は後悔してからすべてに気づいたんだ。自分が母親に生かされていたことに。  おれも親父と同じ道を行こうとしている。弱い自分と向き合わずにイチヤさんを傷つけた。  ごめん。失うのがこんなに苦しいなんて知らなかったんだ。  おれは泣いた。すがるものもなく額を床に押しつけて泣いた。  みっともなくてもいい。許してくれ。イチヤさん。 「何やってんだ、変態?」  心にきざむみたいに「何やってんだ、変態?」を復唱する。  いつ扉が開いたんだろ。聞いてなかった。  考えている間にも足音が響く。声の人はおれの後ろでため息を吐いたようだった。  あんなに会いたかったのに、自分のしでかしたことに気づくと顔を上げるのが難しくなる。 「おい」  地を這うような声はいらだっているみたい。 「イチヤさん」  自分でもわかるくらいの鼻声だった。 「お前、泣いてんのか?」  のぞきこんでくるイチヤさんに、抑えはもう効かない。手を引いて腰に抱きついた。 「おい」  そう言いつつも、無理にはがそうとはしないで、おれの頭をなでてくれる。いつもこのぬくもりに甘えてきた。 「おかえり」 「ああ、ただいま」 「ごめん」 「どうしたんだ?」 「とにかくごめん」  何のごめんなのか、説明する余裕すらない。  イチヤさんがしゃがんだところを床にやさしく押し倒した。 「帰ってきていきなりかよ」 「ダメ?」 「聞くなよ。シャツを脱がそうとしてるくせに」  目線を手元に移すと、マジだ。おれの指は無意識にもボタンを外しかけていた。  はだけさせたシャツに手を入れると、イチヤさんは上体を起こす。  そのまま両手で前から背中へとすべりこませ、腰から脇にかけてのぼっていく。  今度は神経を唇に集中させた。体を合わせたことは何度もあるが、キスからは久しぶりだ。いつも嫌がるから。  でも今日にいたっては抵抗はない。熱を感じたら大分落ち着いた。 「泣いてんじゃねえよ」  顔を離すとイチヤさんの指が涙をぬぐってくれる。 「それからそれ、はけよ」  ああ、たぶん脱ぎかけのジーンズの話だ。 「いいよ。どうせ全部脱ぐんだから」 「まあな」  白い歯を見せたイチヤさんはおれの首に腕を回し、かみつくようなキスをくれた。  それから、ベッドの上で部屋に帰らなかった理由を聞いた。イチヤさんのお母さんが怪我をして、そのお見舞いに故郷に帰ったそうだ。 「大変だったんだね。おれも連れていってくれたらよかったのに」 「こっちだって、『親が大変だ』って聞いたぐらいで慌ててたんだよ。着替えも持っていかなかったし。それに、お前のことに悩んでたから言えなかった」  おれはイチヤさんの悩み事すら気づかずに暮らしていた。  イチヤさんの首の下に腕を差し入れ、横抱きにする。クッションとは違う。しっとりと汗ばんだ人肌に安心する。  おれはイチヤさんの言うように親父とは違う。  イチヤさんがいなくなる前に自分の馬鹿さかげんに気づけたのだ。  言葉にはしないけど、近々スマホを買い替える予定だ。  今度は浮気相手を全部消して、イチヤさんの友達の連絡先を入れよう。次こそは迎えに行きたいから。  そっちのほうが今のおれには重要だったりする。 〈おわり〉
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