84人が本棚に入れています
本棚に追加
end【浮気さんのさいご】
「たっだいまー」とのんきに帰ってきたら、薄暗い部屋のテーブルの上で置き手紙を見つけた。
「あたためて食べて」とか「ちょっと遅くなる」とかの伝言はスマホが基本だ。いちいち置き手紙で伝えるのはおかしい。
それにシンプル好きのイチヤさんにしては遊びすぎな気がした。
おれだったら似合いそうだけど(読まれたらそっこうで、握り潰される自信がある)。
「えーと」
電気を点けて読んでみる。チラシの裏に書かれた、右上がりで達筆な文字は、おれの心臓を止まらせるような破壊力があった。
「『しばらく帰らない。コーヒーのかえはキッチンの一番端のなか。トイレットペーパーはなくなりそうだから買っておけ。イチヤ』!」
たった数行を何度も読み返してしまう。「しばらく帰らない」その意味を理解すれば、「部屋を出ていく」ということだ。
「え? 嘘、何?」
一人でつぶやきながら、紙を片手に歩こうとしたら棚に足の小指がぶつかる。マジで痛い。
部屋で足をさすりながら考える。「どうして」の部分はわからないけど、心当たりは五万とある。
もしかしたらイチヤさん。とうとう見限ったんじゃないだろうか。浮気ばっかりして、それでもやめられずにいるおれに。
何だかんだ殴ってでも許してくれるイチヤさんに、安心していたんだ。だからすごく混乱している。
人を追いかけるにはどうしたらいいんだろ。ちゃんと謝るにはどうしたらいいんだろ。がらにもなく真面目なことを思う。
部屋のかたすみで丸くなっていると着信音が軽やかに鳴った。沈黙した部屋にはすごい場違いな曲。
でも、「逢いたい」系のバラードじゃなくてよかった。今聞いたらぜったいに泣いてしまいそうだ。
一度スマホを確認しただけで、おれは出なかった。着信音からすでにイチヤさんじゃないことはわかっていた。もういいやと、スルーした。
昼夜、いつ飯を食べたか、あんまり記憶がない。辺りにあった菓子をつまんだかも。からのゴミが転がっていたからそうなんだろう。
体が鈍くて仕方ない。寝室にも戻らず、ソファの上に転がった。
暇があるのにやることがない。女の子と遊ぶことを引けば、おれは無趣味な人間だったらしい。
部屋でじっとしている時間なんて眠っているときくらいだ。こんな夜を知らなかった。
おれが帰らない夜、イチヤさんは一人何を思っていたのか。
怒っていた? もしくは泣いていた?
どれもうまく想像できない。イチヤさんの孤独を知らないから。
クッションに顔をうずめて淋しさを埋めようとする。このぬくもりがイチヤさんだったらいいのにと考えるのは“孤独”なんだろうか?
イチヤさんの言う、しばらくが経った。この一週間のことは思い出しようがなかった。
ひとことで表せば、ただ寝て起きるだけのつまらない日々。
周りのダチが「大丈夫かよ」「やつれたな」と心配してくれたが、最後には「女とやりすぎなんだよ」と決め付けられ、おれのつるむやつにまともな人間がいないことがわかった。
イチヤさんは学校も休んでいるようだった。同じ大学にかよっているはずなのに、イチヤさんの友達も知らない。
会いにいこうと歩きだすが、足を止める。次の一歩が踏み出せない。まさかだ。イチヤさんの行きそうなあてがなかった。
ついに頭を抱え、二人の部屋に戻ってきてしまう。結局はこの部屋しか知らないんだ。
一週間も掃除していないとほこりが浮いて見える。おれ一人しかいなくたって、部屋は勝手に汚れていく。
「掃除しろ」と蹴ったり、服を脱ぎ散らかして「子供か、お前は」と頭をこづいてくれる人はもういない。
「イチヤさん」
ジーンズを脱ぎかけた姿で床に手をついた。おれは情けない男だ。イチヤさんがいないとすべてが意味のないものになっていく。
おれは早く気づくべきだった。さんざん浮気を繰り返していた親父が、母親の亡くなった日から何も手につかなくなったこと。
あの人は後悔してからすべてに気づいたんだ。自分が母親に生かされていたことに。
おれも親父と同じ道を行こうとしている。弱い自分と向き合わずにイチヤさんを傷つけた。
ごめん。失うのがこんなに苦しいなんて知らなかったんだ。
おれは泣いた。すがるものもなく額を床に押しつけて泣いた。
みっともなくてもいい。許してくれ。イチヤさん。
「何やってんだ、変態?」
心にきざむみたいに「何やってんだ、変態?」を復唱する。
いつ扉が開いたんだろ。聞いてなかった。
考えている間にも足音が響く。声の人はおれの後ろでため息を吐いたようだった。
あんなに会いたかったのに、自分のしでかしたことに気づくと顔を上げるのが難しくなる。
「おい」
地を這うような声はいらだっているみたい。
「イチヤさん」
自分でもわかるくらいの鼻声だった。
「お前、泣いてんのか?」
のぞきこんでくるイチヤさんに、抑えはもう効かない。手を引いて腰に抱きついた。
「おい」
そう言いつつも、無理にはがそうとはしないで、おれの頭をなでてくれる。いつもこのぬくもりに甘えてきた。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
「ごめん」
「どうしたんだ?」
「とにかくごめん」
何のごめんなのか、説明する余裕すらない。
イチヤさんがしゃがんだところを床にやさしく押し倒した。
「帰ってきていきなりかよ」
「ダメ?」
「聞くなよ。シャツを脱がそうとしてるくせに」
目線を手元に移すと、マジだ。おれの指は無意識にもボタンを外しかけていた。
はだけさせたシャツに手を入れると、イチヤさんは上体を起こす。
そのまま両手で前から背中へとすべりこませ、腰から脇にかけてのぼっていく。
今度は神経を唇に集中させた。体を合わせたことは何度もあるが、キスからは久しぶりだ。いつも嫌がるから。
でも今日にいたっては抵抗はない。熱を感じたら大分落ち着いた。
「泣いてんじゃねえよ」
顔を離すとイチヤさんの指が涙をぬぐってくれる。
「それからそれ、はけよ」
ああ、たぶん脱ぎかけのジーンズの話だ。
「いいよ。どうせ全部脱ぐんだから」
「まあな」
白い歯を見せたイチヤさんはおれの首に腕を回し、かみつくようなキスをくれた。
それから、ベッドの上で部屋に帰らなかった理由を聞いた。イチヤさんのお母さんが怪我をして、そのお見舞いに故郷に帰ったそうだ。
「大変だったんだね。おれも連れていってくれたらよかったのに」
「こっちだって、『親が大変だ』って聞いたぐらいで慌ててたんだよ。着替えも持っていかなかったし。それに、お前のことに悩んでたから言えなかった」
おれはイチヤさんの悩み事すら気づかずに暮らしていた。
イチヤさんの首の下に腕を差し入れ、横抱きにする。クッションとは違う。しっとりと汗ばんだ人肌に安心する。
おれはイチヤさんの言うように親父とは違う。
イチヤさんがいなくなる前に自分の馬鹿さかげんに気づけたのだ。
言葉にはしないけど、近々スマホを買い替える予定だ。
今度は浮気相手を全部消して、イチヤさんの友達の連絡先を入れよう。次こそは迎えに行きたいから。
そっちのほうが今のおれには重要だったりする。
〈おわり〉
最初のコメントを投稿しよう!