第一章 少女の受難

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第一章 少女の受難

 その臭いは、様々なものに例えられる。  鉛筆の芯のような臭い。  玉ねぎのような臭い。  お酢のような臭い。  あるいは雑巾のような臭い――。  臭いの種類には個人差があり、また、嗅ぐ人間によって受けるイメージは違うものの、必ず共通している部分がある。  それは、例外なく『くさい』ことだ。  その臭さは個人差あれど、並大抵ではなく、その体質の人間がそばにいるだけで、すぐにそれだと判明してしまうほどだ。すれ違うだけで皆が臭いを感じ取り、重度になると教室中に充満するレベルになる。  この体質の深刻な問題点は、嗅覚に関わる点にあった。見た目が多少汚くても、人はさほど気にしない。だが『におい』は別だ。人間が遥か太古から培ってきた本能ゆえか、悪臭に対しては人は強い忌避感を持つ。  そのため、この体質を生まれながらにして持つ者は、過酷な運命を背負うことになる。誹謗中傷や差別、人格を無視した扱いを受けることも少なくなかった。  その体質の名前を、人々は『ワキガ』と呼んだ。  峰崎晴香は、ため息をつきながら、一人で通学路を学校へと向かって歩いていた。  周囲は、晴香と同じ制服姿の女子高生もチラホラ見える。紺のブレザーに胸元には赤いリボン、緑と黒のチック柄のスカート。  彼女たちは朝だというのに、楽しそうに友達とおしゃべりをしながら、登校を行っていた。  晴香は歩道を歩きながら、空を見上げる。煌々とした朝日が眩しく、思わず目を細めた。  夏も終わりを迎え、十月へと突入した時期の晴れやかな朝。だが、晴香の心は暗かった。  ――学校に行きたくない。  その思いが、胸中を呪いのように覆っていた。  これは毎朝思うことである。行けば必ず不愉快な目に遭う。それをわかっていながら、目的の場所へ向かうのは、苦痛以外何者でもなかった。しかも、今日は嫌なイベントもある。  晴香は足取り重く、通学路を進んだ。やがてしばらく時間が経ち、自身が通う高校へと辿り着いた。  校門を通過する直前、晴香は周囲から目が付かないよう、さりげなく自身の脇の臭いを嗅ぐ。清涼感ある香りが鼻腔をつき、特に悪臭は感じなかった。  しかし、安心してはいけない。この体質の嫌らしいところは、自身では臭いがわからない点だ。家を出る前に、市販のデオドラントスプレーを鬼のようにかけてきたが、もしかすると、もう臭いが発生しているのかもしれなかった。  念のため、後でまたスプレーをしておこう。  晴香はそう決意し、校門を通過した。  玄関へと入り、下駄箱で上履きへと履き替える。それから、自分の教室がある二階を目指した。  階段を登ったところで、同じクラスメイトの岡崎大樹が、正面からこちらへ歩いてくる姿が目に入った。  岡崎の姿を確認した途端、晴香の体が竦んだ。足が震え、心臓の鼓動が早くなる。  岡崎もこちらのことに気がついたようだ。野球部にふさわしい恵まれた体格と長身の体を揺らしながら、そのまま進んでくる。  晴香は緊張を悟られないよう、心を宥めながら、前に進む。岡崎が眼前に迫った。岡崎は、細い目でこちらを見下ろしている。  岡崎とすれ違う瞬間、彼が小さく「くさっ」と呟く声が、耳へと届いた。  晴香は、きゅっと唇を結ぶ。濁りのような不快感と劣等感が腹の底から湧きあがり、全身を満した。  今朝、あれだけ予防してきたのに、やっぱりもう臭っているんだ。私は本当に、臭い人間なんだ。  岡崎とすれ違った後も、晴香の心は暗い気持ちに覆われていた。まだまだこの先も受難が待ち受けているのだ。気分が落ち着くわけがなかった。このまま家に帰りたい気分だった。  もちろん、そんなわけにはいかず、晴香は廊下を歩き、自分のクラスへ向かった。  やがて、二年一組と書かれた自分の教室の前へと辿り着く。  晴香は小さく息を吐くと、教室のドアを開け、中へと入った。すでに登校していたクラスメイトの何人かが、こちらに目を向けてくる。  小さな含み笑いが聞こえた。それから、何事か小声で話す声。多分、私のことを言っているのだろう。  晴香は教室の中を進み、隅にある自分の席へと行く。そして、通学鞄から手提げ袋を取り出し、再び教室を出るためドアへ向かう。  教室を出る時、出入り口付近の席に座っていたクラスメイトたちの会話が耳を突いた。  「臭いねー」  「もう教室中に充満してんじゃん」  「そうそう。まだ朝なのにさ。あり得ねー」  清水有希と大沢貴だ。海池健斗が、それに加わる。  彼らが、わざと聞こえるように会話をしていることがわかった。  教室を出た晴香は、女子トイレへ赴き、個室へと入る。手提げ袋の中からデオドラントスプレーを取り出し、ブレザーとシャツのボタンを外した後、脇の下へふんだんに吹きつけた。シャツの脇に当たっている部分は、アポクリン汗腺の影響か、黄ばんでいた。  スプレーをしながら、晴香は滲んだ涙を拭う。  この体質のせいで――このワキガのせいで、自分はこんなに苦しんでいるのだ。先ほどのように、クラスメイトたちから中傷や陰口を受ける毎日。  クラスメイトたちの嘲笑の顔が、脳裏に浮かび上がってくる。岡崎を始め、執拗に晴香の体臭について、非難の姿勢を取る者たち。クラス全員ではないが、かなりの数に上る。  だが、その原因は、自分の体質なのだ。無為に彼らや彼女たちは、自分を責めているのではない。  このワキガのせいで……。  晴香は、自分の運命を呪った。トイレの天井を見上げ、その向こうにいるはずの神サマに対して、心の中で問いかける。  どうして自分は、こんな体に生まれたのですか? 神サマ、どうしてですか? そんなに私が憎いですか?  天への疑問は一向に返されず、女子トイレ内の静寂のみが晴香の体を包んだ。  晴香は泣きじゃくりたい気持ちを抑え、ひたすら脇へスプレーをかけ続けた。  「それじゃあ修学旅行のグループ決めを始める。各自、自由に話し合ってくれ」  担任である高岡正造先生の低い声が、教室中に響き渡った。  二ヵ月後に控えた修学旅行のグループ決めのため、今日は四時限目に、LHRが取られていた。  クラスメイトたちは、先生の言葉を皮切りに、それぞれ仲良し同士で集まり始める。そして、ここからさらにお互いが話し合い、グループが作られていくのだ。  このクラスは男女同数で、合わせて三十六名。一班六人の予定なので、男女それぞれ三班ずつ、計六つのグループが作られる。  晴香は、クラスメイトたちが班決めで盛り上がる中、一人自分の席に座ったままだった。  なぜなら、行くところがないからだ。誰も誘わないし、誘われない。いつものことだ。  普段休み時間にやっているように、文庫本を取り出し、読み耽りたかったが、さすがに授業中であるため、それは難しかった。仕方なく、窓の外を眺める。  すると、高岡先生が話しかけてきた。先生は五十代の白髪交じりの男性。どこか、ヒキカエルを思わせる風貌をしている。  「どうした峰崎? お前もグループ決めに参加しなさい」  高岡先生の言葉に、晴香の心がざわめく。恐れていたことが起きそうだからだ。  「いや、私は……」  晴香は慌てて手を振り、拒否する姿勢を取った。だが、高岡先生は一切、取り合ってくれなかった。  高岡先生の胴間声がこだまする。  「おーい、誰か峰崎を同じグループに入れてやってくれ」  途端、静まり返る教室。雰囲気が鉛のように重くなる。晴香にはすぐにわかった。皆が何を考えているのかが。  教室中の視線が集まり、晴香は自身の顔が紅潮したことを自覚した。それから、脇汗が滲み出てきたことも。  これは非常に嫌な展開だ。  ほんの少し、間があり、やがて教室中がざわめき出した。皆、侮蔑や困惑の表情を浮かべている。  すると、前方の席でたむろしていた岡崎が、手を上げつつふざけた口調で言った。  「峰崎さんだけ一人のグループでいいんじゃないっすかね? だって、ほら、公衆マナー的つうか、衛生的にね……」  教室中に笑いが起きた。高岡先生も注意することなく、鼻に指を当て、啜りながらニヤついている。先生も、岡崎の言葉の意味することは理解しているはずだ。それでも咎めない。先生も、私の体臭に辟易しているからだ。  「もういっそ、バスも別にしちゃえば?」  岡崎の隣にいる軽薄そうな容貌をした小塩雅秀が、自身の細い顎を撫でながら言う。彼は、岡崎の友人で、同じ野球部だ。  「というかもう学校に残ったほうがよくない?」  同じく岡崎の友人である二村晴康が、小塩の揶揄に乗じて発言する。愛嬌のあるやや太った顔が、今は憎らしげに歪んでいた。  さらに湧き起こる笑い。そこでようやく、高岡先生が声を上げた。  「こらー、いい加減にしないかお前たち」  先生は、軽い口調で言う。全く咎める気はないようだ。  臓腑を抉られるような不快感。恐れていた展開に直面し、顔を伏せたくなる。晴香は、今日学校へきたことを非常に後悔した。  そもそも、修学旅行にすら行きたくなかった。だが、母親がそれを許してくれないのだ。今日休むことも同意してくれなかった。  クラスメイトたちの嘲笑の中、晴香はこのまま消え入りたい気持ちに襲われる。いっそ、死んだほうがマシに思えた。  その時である。一つのグループから、か細い声が聞こえてきた。  「あの、私のグループには入れます。一人分余ってるから」  棚瀬彩音だ。ショートカットの小柄な女子。裁縫部に所属し、雪のように色白で純朴な容姿をしている。  後ろにいた島田美歩が目を吊り上げ「ちょっと!」と咎めるが、彩音は聞いていないようだった。  岡崎たちは、彩音の言葉を気にすることなく、なおも笑い合っている。小塩だけは彩音を凝視していた。  そして、もう一つ、別のグループからも声が上がる。  「仲間外れはいけないと思います。峰崎さんも同じクラスメイトですから」  史園清茂がおずおずと手を上げながら、そう言った。銀縁眼鏡を掛けた優等生然とした顔が、緊張したように強張っている。近くにいた友人である西脇光弘と滝誠司は、我関せずといった表情だ。  彩音と清茂の発言を聞き、晴香は微かだが、胸を温かくした。  「だそうだぞ。よかったな峰崎」  高岡先生はニヤニヤしながら、晴香が座っている椅子の背を叩いた。  晴香が誘われたグループのメンバーは、彩音以外、晴香の班入りを歓迎していなかった。明らかな迷惑顔と、軽蔑の表情が露骨に晴香へ向けられている。  晴香が参入した班は、女子の第三班だった。特に順位付けの意図で番号を付けられたわけではないだろうが、暗黙の了解と言うべきか、クラスでのカースト上位のメンバーが数字の若い班を陣取る形になっているようだ。  つまり、この班は、二年一組の女子におけるカースト下位のメンバーが集まっているということである。  ちなみに先ほど春香を庇った史園清茂は、男子の第三班、男子でのカースト最下位のグループであった。  「災難だったねーカズッちゃん」  女子第一班のメンバーである豊川樹里が、小馬鹿にした態度で、第三班の井谷和枝の背中を小突いていた。和枝は白くてのっぺりとした地味な顔を嫌そうに歪めていたが、それは樹里ではなく、こちらへ向けられていた。  「ま、地味面ならお似合いっしょ」  樹里はそう言い残し、茶髪に染めたポニーテールをたなびかせながら、自分の班へと戻っていった。  和枝の隣に座っていた加納純が、眉根を寄せ不機嫌そうに言う。  「なんでこんな奴と一緒の班にならないといけないのよ」  純はただでさえ、険のある顔をしている女子だが、今はなおさら、厳しい形相をしている。よほど気に食わないらしい。  純の悪意ある言葉を受け、晴香の心臓がぎゅっと縮んだ。  「棚瀬さんのせいよ。もういや……」  美歩は鼻を擦りつつ、ナチュラルショートの下にある目をうらめしそう歪め、彩音を睨んだ。彩音は戸惑う仕草を見せる。  「でも、あのまま一人にはしておけないよ」  彩音の返答に美歩ではなく、美歩の正面に座っている東倉衣美が抗議した。  「だけど何の断りもなく、私たちの班に入れることはないでしょ!?」  衣美は、ヒステリックに彩音へ言葉をぶつけた。彼女はバレー部で長身なので、彩音を見下ろす形になる。彩音は悲痛な表情を浮かべた。  女子第三班のメンバーは、目の前に晴香がいることなどお構いなしに、口々に不満を申し立てている。晴香は、悲鳴を上げている心を抑えながら、じっと耐えていた。  その時、教壇にいた高岡先生が声を張り上げた。そこで、班の皆は口を閉じる。  「どうやらグループは決まったみたいだな」  先生は、教室中を見回しながら言う。それから続けた。  「修学旅行中は、基本的に今のグループで行動してもらう」  美歩たちが、嫌そうにため息をついたことがわかった。女子第一班にいる新井真理が清楚に整った顔をこちらに向け、小さく笑った姿が目に入る。  「それでは日程を説明する」  資料が配られ、修学旅行の説明が始まった。  目的地は長野県。そこにあるスキー場で、四泊五日過ごす予定だ。  まずは空港へ赴き、飛行機で長野空港を目指す。長野空港に到着した後は、大型バスで白馬山まで移動するらしい。  部屋はグループごとに宿泊する形となっている。食事は全てレストランで出され、入浴は一クラス単位で、大浴場で入るようだ。  大浴場の説明が終わったところで、女子第一班にいる阿南瑠奈が手を上げた。  瑠奈は、二年一組においてリーダー格の女子だ。茶色の髪に、メイクを施した気の強そうな容貌。素行も悪く、度々教師から呼び出しを受けている問題ある生徒だ。  しかも彼女は、あの男――岡崎と交際している女子だった。  「どうした? 阿南」  高岡先生が、手を上げた瑠奈を指名する。瑠奈は椅子にふんぞり返った姿勢で、不機嫌な口調で話し出す。  「その入浴だけどさー、クラス皆で入るわけ?」  先生は首肯する。  「そうだな。もちろん男女別れるが、説明した通り一クラス単位だ」  瑠奈は恫喝するような口調で、声を張り上げた。  「それってありえなくない? 一緒に入りたくない奴がいるんだけど」  そう言いながら、瑠奈はこちらを睨みつけた。瑠奈の綺麗に整った肉食獣を思わせる鋭い目が、晴香を射抜く。晴香は野ネズミのように、体を硬直させた。息が詰まる。  「そこはルールだから、守ってもらわないと」  高岡先生が、たしなめるように言った。だが、瑠奈は納得しない。大きく舌打ちを行った。  「誰かさんと一緒に入ったら、匂いとか付きそうで嫌なんだよ。何で入浴したのに汚くなるんだよ」  瑠奈がそう言うと、教室のあちこちから笑い声が上がった。  クラスメイトたちの嘲笑を聞きながら、晴香は吐き気を覚えていた。握り潰されているかのごとく、胃が痛む。自身の内に、漆黒の『闇』が漂い始めたことを自覚した。  彩音が気を遣うように、こちらの顔を見たが、何も言ってはこなかった。  「だったら、男湯にこいよ!」  岡崎がはやし立てるが、瑠奈はうるせえ! と怒鳴り、天を仰いだ。  瑠奈の隣にいた桑島麻衣が、瑠奈の肩を叩く。麻衣はボブカットの線が細い美人で、瑠奈の友人だ。  「まあまあ、どうにかなるよ。いざとなったら汚い人を重点的に洗ってやればいいし。前にもやったでしょ?」  麻衣の言葉に、今まで黙っていた樹里がぎゃははと、下品な笑い声を発した。  そこで、口が挟まれる。  「臭い奴を風呂に入れない方法もあるぞっ!」  男子第二班である宮崎航平が、会話に割り込んだ。彼は誰かが騒ぐと、すぐに同調するお調子者だ。実家が定食屋を営んでいるため、料理はプロレベルらしいが、成績は悪い。  「それじゃあ、ガス兵器になるよ」  「クラス皆死んじゃうじゃん」  航平に対し、愉快そうに突っ込みを入れたのが、同じく第二班の沖野良和と杉沢亮だ。  教室が、悪意ある笑いの渦に包まれた。  その後、ひとしきり晴香への誹謗中傷が続き、やがて入浴の話は終わった。結論としては、ルールはルールで、晴香と共に入浴する仕組みは変えられないらしい。  それから、メインとなるスキー時における注意事項の話に移った。だが、晴香の耳にはもう先生の話は届いていなかった。  胸中に去来した真っ黒い『闇』は、風船のように膨らみ続けていた。その『闇』に、晴香は飲み込まれようとしていた。  チャイムが鳴り響き、クラス委員長である小金沢隼人の礼によって、LHRは終了を迎えた。  この一時間で修学旅行の日程はほぼ全て決まり、後は二ヵ月後の本番を待つのみとなった。  学校は昼休みに突入し、賑やかな時刻が訪れる。  他の生徒が、友人たちと席を囲み、弁当を食べる中、晴香は一人で弁当箱を広げていた。  母手作りの弁当。だが、食欲は全く湧かなかった。石を飲んだかのように、胃が重いのだ。  クラスメイトたちの自分に対する中傷の数々。ワキガへの強い嫌悪感。先ほどのLHRで、晴香はボロ負けしたボクサーのように、身も体も打ちひしがれていた。  まさに、危惧していた通りの結果であった。  弁当を見つめながら、母のことを考える。  前に、このワキガについて母へ相談したことがあった。自分はワキガであり、ワキガを治す手術があるので、それを受けたいと。  しかし、母の答えはノーだった。あなたは臭くなく、気のせいであるとの主張だった。学生なのだから、そんなことに気を遣わず、もっと別のことに気を向けるべきだ、第一、お金がない――。  ワキガのせいでイジメられていることを伝えようと思ったが、無駄だと晴香は悟った。この母親は、娘の気持ちなど一切眼中にないのだと。  バイトをして、自分でお金を溜める方法も考えたが、晴香が通う高校は、アルバイトが禁止であるため、それも不可能だった。  完全に八方塞りの状況となった晴香は、ワキガと付き合っていく道を選ばざるを得なかった。そして、それは身に降りかかるイジメを受け入れることを意味している。  これからずっと、こんな日々が続いていくのだろう。晴香は実感する。まるで苦しむために生きているようだった。そんな人生に意味はあるのか。  そして、ニケ月後に控えている修学旅行。それに参加することが恐ろしかった。四泊五日もクラスメイトたちと過ごすのだ。筆舌し難い苦痛が待ち受けていることは確実である。  もちろん、休むことは許されない。母を説き伏せるのは不可能だからだ。  だったら、選ぶ道は一つしかないように思えた。心の中に生まれた『闇』は、すでに全身を侵しているのだから。  晴香は、一度も手を付けなかった弁当を通学鞄にしまうと、席を立った。普段ならこの時間にトイレに行き、デオドラントスプレーでケアをするのが日課であったが、今は手ぶらだった。  晴香は、教室の後ろのドアへと向かう。途中、岡崎たちが座っている席のそばを通った。瑠奈や麻衣も一緒にいる。  晴香が横を通るなり、彼らは聞こえよがしに次々に批判を口にした。  「くせえって。食欲なくなるわ」  「教室で食べないで欲しいな」  「わざわざ近くを通るなよ馬鹿女」  「もううちのクラスからいなくなってよ」  岡崎たちの中傷や揶揄を背中に受けながら、晴香は教室を出た。  他の生徒とすれ違いつつ、晴香は廊下を進む。トイレを通り過ぎ、階段を上階へと登った。  やがて、屋上の入り口へと辿り着いた。屋上への鉄扉は、通常、施錠されている。だが、不届き者のせいで頻繁に鍵が壊され、実質、屋上への出入りはフリーの状態だった。  晴香はドアノブに手をかけ、回す。鉄扉はあっさりと開いた。一陣の暖かい風が晴香を包む。  晴香は屋上へと出た。屋上には誰もいなかった。秋口の明るい光が空から降り注ぎ、晴香は目を瞬かせる。  外の光に目が慣れたところで、晴香は屋上を歩き、フェンスの前までいく。  そしてフェンスに足をかけ、よじ登った。向こう側へ越える際、上部のトゲ状になった忍び返しに、制服のスカートが引っ掛かり、一部分が破けるが、気にしない。もう制服は必要ないからだ。  やがて晴香は、屋上の淵へと立った。下の方に黒いアスファルトが見える。職員用の駐車場だ。落下するであろう位置には、車は止まっていなかった。  不思議に恐怖は感じない。部屋で寛いでいる時のように、リラックスしていた。  晴香は、天を仰ぎ見る。全てを洗うような透き通った青空の中、鳥の集団が飛んでいる姿が目に映った。  ここからはっきりとは見えないが、V字型に編成しているため、渡り鳥だとわかる。あの鳥たちは、これから日本を離れ、遠くの地域で過ごすのだろう。長い長い旅。だが、それには仲間がいる。皆と協力し合って飛ぶのだ。自分のように、孤独ではない。  晴香は再び地面に顔を向けた。先程よりも、高さが増したように感じる。  ここは四階だ。確実に死ぬことができるだろう。これで楽になれるのだ。もうワキガで悩むことはない。馬鹿にされ続ける人生と決別できるのだ。  晴香は、足を一歩踏み出した。そこでふと、視線を感じる。視線の出所を探ると、下方の校舎の窓から、誰かがこちらを見ていることに晴香は気がついた。  制服を着た男子生徒。ぎょっとしたように、こちらを凝視している。あどけない容貌から、一年生だと思われた。  晴香は、屋上の淵ギリギリに立ったまま、その男子生徒に微笑んだ。  さよなら最悪の人生。  晴香は淵から外へ身を投げ出した。一瞬、体がふわりと軽くなり、やがてジェットコースターに乗っているように、急降下する感覚が全身を襲う。  すぐさま眼前にアスファルトが迫った。怖いと思う時間すらなかった。水に落ちたような衝撃が体を包み、視界が真っ暗に染まった。
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