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ぬいと映えごはん
【序】
真っ白な灯りを反射して銀色のアームがスライドしていく。
レトロな音色のコンピューター・ミュージック。思い思いのグルーヴが星のように散らばるあちこちのスピーカーから無秩序に溢れて飽和していた。
アームが降りる。動きに合わせ、ひときわ大きな音でピュンピュンピュンと無邪気な効果音が鳴り響く。
その先にあるぬいぐるみの、フェルト布でできた小さな手。それがほんのわずかに重力と反対の方向に動いた。
手のひらに乗るほどの小さなぬいぐるみがふたつ。離れないようにきゅっとくっついて手を握りあう。
ただの布と綿じゃない。
生きている。
その秘密を知るニンゲンは、今このときは、あなたの他にない。
【8月31日】
フローリングの廊下を小さな影が二つ前後に並んで移動していく。ヒヨコぐらいの大きさの、音もなく軽い何か。それは2頭身の人間の形をしたぬいぐるみだ。
2つの影はやがて木製の扉の前に辿り着いた。
ほぼ同じ顔のぬいぐるみだが髪型や服装はかなり違う。そして並ぶとその背丈に違いがあるのがわかる。
少し大きい方のぬいぐるみが手を斜め上に向けた。それを合図に空中に滑り出たものがある。
タオルハンカチ。
そのままひゅっと空を飛んで、ぬいぐるみの手の動きに操られるようにしてノブを押し下げ、扉が開いた。
「ヒデアキ! 起きろ! メシが冷めるぞ!」
ヒヨコみたいな小さな体から出た声は、可愛らしい外見に似合わず低く芯のあるイケボだった。数十グラムの体が「ヒデアキ」と呼ばれた少年のベッドにチョコチョコと走り寄ると2つ並んでぴょんっと跳ね上がった。
ぽこぽこぽこぽこぽこ……
ぽこぽこぽこぽこぽこ……
「うわっ!? なになになに!?」
2つのぬいぐるみに連続キックを食らわされてヒデアキは慌てて飛び起きた。その勢いで2つのぬいぐるみはふっ飛ばされたけど、空中でくるくると回転して身軽に着地した。
小さい方のぬいぐるみが、
「タマゴ、うまく顔が描けた。台所に来い」
とジト目の澄ました顔で促した。
ヒデアキが起きたのを確認すると、ぬいぐるみたちは向かいの部屋に入っていった。「なになになに」と同じような悲鳴があがる。兄のシンタローの声だ。ぬいぐるみのドスのきいた怒鳴り声がドアの隙間から漏れ聞こえてくる。
「仕事行くんだろーが! 40秒で支度しろ!」
ヒデアキはごく一般的な、現代日本のどこにでもいる中学2年生だ。ぬいぐるみに命を宿す呪術使いなんかじゃないし、ぬい型ロボットを開発する科学者でもない。
ゲームセンターの景品のぬぐるみがこんな風に知性を持って動いて喋ると知ったのはつい数日前のことで、最初はさすがに驚いたけど今はもう日常である。
顔を洗うのもそこそこに食卓へ急かされた。ベッドから叩き出されたシンタローがフラフラとやってきてヒデアキの隣に座った。
「おはよ」
と声をかけると、
「おー」
とだるそうな声をあげている。綺麗なアッシュブラウンに染めたくせ毛が無造作に跳ねている。
大学生のシンタローは極度の夜型で朝は挙動があやしい。バンドをやっていて、ステージにいる時はカッコイイのに家ではぐーたらである。まあしかし明け方まで作詞作曲にいそしんでいるという大義名分があるから、半分眠ったような態度でも仕方ない。
「シンくん、何時まで起きてたの?」
とヒデアキは尋ねた。
「わからん。多分明るくなる前には寝た」
だそうだ。
テーブルの上で存在感を放っているのは目玉焼きだ。海苔とチーズで顔が描かれている。ジト目の具合がシンプルな顔のぬいぐるみたちにそっくりだった。最近時々見かける「目玉焼きアート」というやつ。
同じ皿の端っこで厚切りのベーコンとほうれん草のバターソテーがつやつやと光って美味しそうに香っている。
茶碗に盛られたゴハンは表面が少し平らになっていて、目玉焼きと同じようなジト目の顔が海苔の佃煮で描かれていた。これは目玉焼きの記号的な顔よりはリアル寄りの描写だった。
「すごい。今日のは上手くなってる」
とヒデアキが小さい方のぬぐるみに尋ねる。
「ん。兄さんと一緒に描いた。練習したから今日はうまくいった」
アオイくんと呼ばれたぬいぐるみは名前の通り、全体的に青い。漢字にすると碧生。松神碧生ぬいという立派な名である。「ぬい」はぬいぐるみのぬい、だそうだ。ヒデアキと同じ13歳……という設定。実際は4年前に大量生産品として作られてゲームセンターを経由し、この家に来たらしい。
ちょっとだけ大きい方のぬいぐるみは碧生の兄、千景。こちらは青くはなくて、黒い髪を無造作に束ね、毛先がピョコピョコ跳ねた造形だ。フルネームは松神千景ぬい。科学技術系の大学に通う21歳……という設定。シンタローと同じ歳ということになる。
タオルハンカチが飛んできた。ほうじ茶が入ったカップが乗っている。空飛ぶタオル。アラビアンナイトに出てきそうなこの道具は千景ぬいとヒデアキの母の共同開発だそうだ。
タオルを操る千景がヒデアキに声をかけた。
「とりあえず、茶でも飲め」
「ありがとう。お父さんは、もう出かけたんだ?」
「ああ。なんかの結果が出たとか言って、急いで出てったぞ」
最後にお吸い物が運ばれてきた。白ネギと星型のお麩がたくさん入っている。今日の主役はコレだ。
本人不在の家に届いた、母の通販での「お取り寄せ」。
黒い椀にカラフルな星が浮かんでいる。童話の中の夜空の絵みたいだ。昨日は味噌汁に入れたがこういうのは澄まし汁の方が映える。
朝から華やかな食卓を準備しているのにはそれなりの理由がある。
ぬいぐるみたちはいそいそと、和食屋さんの作務衣風「ぬい服」を装着した。ぬい服、というのはぬいぐるみの服のことである。ぬいたちいわく「着物は動きにくいから普段は着ない」だそうだ。
「よし。撮ってくれ」
と碧生が茶碗の前に立った。
「これ持って」
とヒデアキが箸を渡した。それを見て千景もシンタローの箸を取り上げて構えた。
「もーちょっと前にだして、『はい』ってお箸あげるみたいにして」
ポーズの要求に応えぬいぐるみがモゾモゾと動く。ヒデアキの手元でカシャ、と小気味よい音。
写真をトリムして色を変える。その様子を碧生がヒデアキの肩に座って興味深げに見ている。ぬいぐるみの頭に付いている「ぬいひも」が時々耳に当たった。
整えた写真をツイッターに投稿した。
すぐにハートマークが光った。「いいね」の数が増えていく。碧生はジト目のままだが嬉しそうだ。
二人が見ているのは碧生の管理するアカウントだ。ヒデアキの母が始めたもので、写真がメイン。ツイートに言葉はほとんどなく、あっても被写体の説明が一言だけ。それを毎日更新し、フォロワーを減らさないこと、できれば増やして現在953人なのを1000人以上にすること。それを碧生は己の使命と考えているようだった。
❝いいね❞の横の数字が増えていく様子を、彼は見つめている。
「100いくか?」
「どうかな。50ぐらいかも」
ヒデアキにそう言われて「う」と碧生が眉間にシワを寄せた。
「おまえ、シビアだな」
「昨日のシンくんのは200超えてる」
「おう。あれで金取ってたんだからな。っつか、200って少なくね?」
昨日はゴハンがあまり映えなかったので、シンタローが秘技の3Dラテアートを披露してくれた。そしてフォロワーが2人増えた。
シンタローの向かい側の母の席には誰の姿もない。
「いただきます」
神妙に手を合わせて卵の黄身を見下ろす。ぬいによく似たジト目と目が合った。
「タマゴ……やっぱり顔あると食べづらくない?」
と隣のシンタローを見る。
「何言ってんだ。顔じゃなくて海苔だろ」
にゅっと手が伸びてきて箸でタマゴの表面を掻き回した。
無慈悲な所業にヒデアキが、
「あー!」
と抗議の声をあげる。
「『ごはんですよ』も混ぜてやる」
シンタローの箸の先が今度は白米の上の海苔の佃煮を狙ってくる。
「いいよぉ、自分でやるから」
慌てて飯茶碗を取り上げて守った。
顔のなくなった目玉焼きにウスターソースをかける。甘みのあるいい香りがする。
箸を取る。卵をゴハンの上に乗せると黄身がとろっと流れ落ちた。
「ん。おいしい」
思わず言葉がこぼれた。ぬいとシンタローがちらっとこちらを窺うのがわかった。胸の奥がツンと痛んだけど、もう息ができなくなったりはしない。ゴハンを食べても気持ち悪くはならない。
10日前、お母さんがいなくなった。
職場の研究所の爆発事故で行方不明になって、母のものと思われる「何か」が見つかった。それをヒデアキは見せてもらえなかったし、今は警察が持って行って鑑定中だ。
これまでも仕事でしばらく帰ってこないことがよくあった。きっと爆発した研究所にいたなんて間違いで、そのうち別の場所で仕事を終えて帰ってくる。そんな気がしている。
母がいないのは変わらないのに家族の生活は少しずつ変化した。
父は家が職場だけど、夜遅くまで外に出るようになった。
シンタローは逆にあまり朝帰りしなくなって家にいる時間が増えた。
ヒデアキはいつも通りのつもりだったのに、部活中に体調を崩して医者に休養を言い渡され家にいる。
一番大きく変わったのは千景と碧生が動くようになったことだ。
正確に言うと、ヒデアキが知らないところで動いていたという事実を知った。
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