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思いがけない出会い
「ねぇ、遠藤くん。今日はシフト十八時まで? これから時間ある?」
配架が終わり、事務所で作業していると、同僚の道江に声をかけられ、天音はキーボードを叩く手を止めた。
「いつものですか?」
「そうそう」
「いいですよ。いま片付けます」
今日中に新着本の登録を終わらせてしまおうと思っていたが、ちょうどきりもいい。
時計を見れば十八時になるところだったので、机の上を整理すると、天音は少し浮き立った気持ちで退勤記録をつけた。
「今日はどこに行くんですか?」
「この近くで新しい店を見つけたのよ。ご飯がおいしいらしいから、そこにしましょう」
図書館で年長の道江は、今年二十七になる天音の、母親くらいの歳だ。明るくさっぱりした性格で、裏表がなく、話していてとても気が楽な相手だった。
天音の力は意識したコントロールや手袋だけで、完全に遮断できるものではない。そのため極力、人に関わらないよう一線を引いているのだが、彼女とだけはよく話す。
月に二度くらいは、誘われて飲みに行くほどだ。
道江はあの青年と同様に、マイナスの感情がまったく聞こえてこないので、うっかり声を拾ってしまっても安心だった。
「もうすっかり梅雨空ね」
「蒸しますね」
六月に入り、毎日のようにしとしと雨が降る日が続いている。いまの季節は本の管理も少し気を使う。
来館者の返却してきた本が湿気ている、ということもよくあるからだ。先日も一度雨に濡らしたのだろう、よれた状態で返ってきた本がいくつかあった。
正直に申告してくれればいいものを、下手に誤魔化そうとするからたちが悪い。
少し気が重いことを思い出し、天音が小さく息をつくと、道江もふっと重たい息を吐く。
その様子に気づき隣を見れば、彼女は肩先までの髪を撫でる。
「こう湿気が多いと髪がうねって困るわ。遠藤くんはその点、まっすぐストレートで羨ましい」
「乾くのもあっという間で、水はけのいい髪で助かってます」
首元で束ねた、クセのない薄茶色の髪。下ろすと背中にかかるほどあるが、いつでもさらさらとしていて、職場の女性たちにもよく羨ましがられた。
しかし羨望の眼差しを向けられるのは、髪の毛だけの話ではない。
天音は全体的に線が細く、女性的な美しさがあった。
おっとりしたように見える垂れ目に、色っぽい泣きぼくろ。形の良い鼻に、柔らかそうな唇。小さな顔は、どこをとっても整っていて、多くの目を惹く。
館内で、男性にものを訊ねられる確率が一番高いのは、ほかでもない天音だ。
「あ、ここ、ここよ」
図書館から徒歩で十分と少し。住宅街の一角に目的の店はあった。店の外壁に掛けられた黒板には、卵焼きや焼き魚、串焼きなど庶民的なメニューが並んでいた。
「いらっしゃい!」
戸を引き、のれんをくぐると、威勢のいい声が聞こえてくる。カウンターの内側にいる、店主とおぼしき人物のものだ。
視線を向けた天音は、その人のがたいの良さに少し驚いた。まるでクマがそこに立っているかのような存在感。
だが凶悪なクマではなさそうだ。目尻にしわを刻み、ニカッと笑った彼は、人好きするタイプに見える。
「結構人気のお店みたいですね」
小綺麗な店内。壁にお品書きが所狭しと貼り付けられている。居酒屋メニューも豊富だが、定食物も充実しているようだ。
そのゆえか勤め人や学生、家族連れなどで、カウンターや八席ほどあるテーブルは、半分埋まっていた。
空いている席を自由にと勧められ、天音たちは入り口からほど近い場所にある、四人掛けのテーブル席に腰を落ち着ける。
二人で置かれていたメニューを眺めていると、水とおしぼりが出された。
「いらっしゃいませ」
「……あれ?」
ふと聞こえた男性の声に、天音は顔を上げる。声の先へ視線を向ければ、そこにいた店員も、じっと天音を見ていた。
赤茶色い髪に、少し目つきの悪い顔。それは今日も図書館に来た、あの彼だった。
「遠藤くんどうかしたの?」
二人で見つめ合ったままでいると、状況がわからないのだろう道江が、不思議そうな顔をした。彼女の表情に気づき、天音は慌てて正面に向き直る。
「彼、図書館によく来てくれる人で」
「そうなの?」
「はい。……でも僕たちのことは、わからないよね?」
毎日のように顔を合わせているとは言え、図書館の職員の顔など、いちいち覚えていないだろう。言葉を交わすのも、本を借りる時と、返す時くらいだ。
だが彼は天音を見つめたまま、小さく会釈をする。
「覚えてます。いつもカウンターに行くといるから」
「え? 覚えて、たんだ」
「遠藤くんは美人だから、一度見たら忘れられないわよね」
天音から視線を離さない彼の様子に、道江は少しばかり意味深な笑みを浮かべる。
「え? いや、彼よく来ているし、カウンターで彼と会う機会も多いし、顔がどうとかって言うより、単に彼が記憶力いいだけかも」
「あら? そうかしら? 遠藤くんは自分で思っているよりずっと綺麗よ」
「でも顔の好みは人それぞれですし、彼に失礼ですよ」
天音の言葉にきょとんとする道江は、あまり納得のいっていない顔をしている。彼女的にはとても褒めてくれているのだろうが、天音はひどく恥ずかしい気持ちになった。
「俺、中原誠って言います。……知っているかもしれないですけど」
「……中原くん。ごめん、いますごく彼って言葉を連呼した気がする。来館者の名前は個人情報が厳しいから、一人一人、把握していないんだ」
「いえ、ちょっと彼って呼ばれ続けるのが、落ち着かなかっただけで。こちらこそ押しつけてすみません」
「ううん。えっと、僕は遠藤天音です」
「響きが可愛い名前ですね。すごく似合ってます。注文が決まったら、声をかけてください」
「え?」
いくら女性的でも、男の名前に可愛いなんて褒め言葉――どう反応していいのかもわからぬうちに、中原はカウンターのほうへ行ってしまった。
いきなり名乗ったのは余計だったかもしれない、と思うものの。去り際、わずかに彼が微笑んだようにも見えた。
「誠、あの人がお前の片想いか?」
「店長、声が大きいです」
「いい女だな」
「違いますから、失礼な言い方をしないでください。それとあの人は男性です。見た目だけで判断するのやめてください」
「おっと、そりゃあ失礼した」
普段はほとんど口を開くところを見たことがなかったので、店で働く中原はとても新鮮だった。心の声から感じ取れた真面目さと違わず、まっすぐで優しいのもわかる。
天音は女性に間違われることが多くあるので、気にしていないと言ったのに、店長のうかつな発言の詫びだと、彼はビールをおごってくれた。
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