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救われる心
二人並んで歩き出すと、誠は繋いでいた手を離してくれた。天音に逃げ出す気配がなくなったからだろう。
それでも時折存在を確かめるみたいに、視線が向けられた。その眼差しに天音の胸は、はち切れそうになる。熱を感じる誠の瞳には、愛おしいという感情が浮かんで見えた。
「タオル、持ってくるから部屋に上がって待ってて」
「ここまででいいよ」
自宅マンションへ着くと、天音は誠を促した。しかし彼は玄関で立ち止まったまま、頑なに部屋へ上がろうとしない。訝しげな顔を向ければ、なぜだか少し頬を染める。
「そのまま帰ったら風邪を引くよ」
「平気」
「もしかして部屋が濡れることを気にしてるの?」
「そういうわけじゃない。……あー、その、ここはどこに触れても、天音さんの音が溢れてて、ちょっとドキドキして」
照れくさそうに目を伏せた誠はますます頬を染めるが、理由を聞いた天音の顔は真っ青になる。
傘の音は、偶然ではなかったのか。
直接触れて声を拾うだけではなく、ものに触れて、天音の心の声を聞くことができた人は、これまで一人もいなかった。
どこまで自分の心の中を暴かれてしまうのか、そう思うと心臓が縮みひやりとする。
「天音さん?」
「ごめん。やっぱり帰って」
「心の音を、聞かれたくないってこと? これが天音さんと同じ力なら、どうやったらコントロールできるか教えて。ちゃんと話がしたいんだ」
手を伸ばされて、天音は無意識に後ずさりをしてしまった。切なげな誠の表情でそれに気づき、下がろうとする足が止まる。だが再び彼に近づくことは、ためらわれた。
「帰ったほうが、良さそうだね」
「……小さな瓶に、聞こえてくるものを閉じ込めるような、感じ」
「瓶?」
「そう、呼吸を整えて。閉じ込めたらそこに蓋をする」
「小さな瓶に、蓋をする」
天音の唐突な言葉に、不思議そうな顔をした誠だったけれど、すぐに話の続きと気づいたのか、小さく呟くと目を伏せた。
両手を見下ろす彼は、それでなにかを包み込むようにしてから、ぎゅっと手を握り合わせる。
「ものからは、聞こえなくなった気がする」
しばらくして、伏せた目を上げた誠は、確かめるように靴棚に触れた。そして空間を見渡すように、視線を動かす。
「キラキラしていた感じも、少し弱まった、かな。天音さん、ちょっと手を貸して」
「え? あ、……うん」
「あれ? おかしいな。天音さんから聞こえる音が、さっきより大きくなった」
「え、なんで?」
「わからないけど。音がクリアになった」
じっと見つめてくる誠の手を、天音は思わず振り払ってしまった。意識を研ぎ澄ませたせいで、聞き取るアンテナの感度が上がったのかもしれない。
余計なことを言った、数分前の自分を恨みたくなった。
「天音さんの音はやっぱり好き、って聞こえる。なんで俺にそれを知られたくないの? 正直、俺は天音さんの声、全部聞きたい。できたらその口で、好きって言って欲しいけど。まだ俺の気持ち、信じてない?」
「……こんな気持ち、知られたくない。やっぱり、誠くんには、嫌われたくない」
「それって、好きってことじゃないの?」
「好きだよ。誠くんのことがいつの間にか、本当に好きになってた。僕がいいって言いながら、あの子に好きって言った、君が許せないって思ってしまうくらい」
驚きに目を見開く誠の反応に、天音は感情が込み上がりそうになる。喉が震えて、吐き出す息までも震えた。
次第にこらえることもできなくなって、天音の瞳から涙がこぼれ落ちる。
「天音さん」
「やめて! お願い触れないで! 聞かないで、これ以上、僕の心を見ないで!」
胸の内に広がる真っ黒な想い。好きが募れば、もっと心の中は誠を独占しようとし始める。そうすれば心にある暗闇も大きくなる。
「本当の僕は、すごく嫉妬深くて、強欲で、誠くんが思っているほど綺麗じゃない」
「それは、普通の感情じゃない? 好きだったら嫉妬だってするし、その人が誰かをその目に映すのも嫌になる。俺だって天音さんのこと考えたら、強欲にだってなるよ」
「でもみんな僕の気持ちを知って、呆れて、離れていった。僕のこと嫌いになる」
「俺は、天音さんの全部が知りたい。俺に執着して、嫉妬して、真っ黒焦げになっちゃうような。そんなあなたが、死ぬほど可愛くて仕方ないって思う。誰の話をしてるの? 過去の恋人なんか関係ない。天音さんに執着されて、嫌がるやつの気が知れない」
「だけど」
「天音さんの言い訳はもう聞かない!」
苛立ったように声を荒らげた誠は、部屋に上がり込むと乱雑に天音の腕を取った。天音が肩を跳ね上げて逃げ出そうとしても、手を離さないどころか、無理矢理に身体を引き寄せる。
「やだ! ほんとに、嫌!」
「なんで? 俺、すごく天音さんに愛されてる気がして、気分がいいよ。いままでのやつらはみんな、天音さんの上辺しか見てなかったんだ。あなたは芯が強くてまっすぐな人だけど、誰よりも心が柔らかくて脆い人だって知らないんだ」
隙間を奪われ、きつく抱き寄せられて、触れた場所からまた誠の感情が溢れて伝わってくる。押し隠すことをしないまっさらなその想いは、天音の心を絡め取る。
可愛い片想いをしていた、あの頃の彼とは違う。強くて熱くて激しいほどの感情を秘めている。
「最初は笑顔が優しくて、綺麗な人だな、くらいにしか思ってなかった。でも泣いている姿を見た時から、ずっと気になって。泣かせた相手が腹立たしくなったり、天音さんが笑いかける相手にイライラしたり。でも近づいたらすごくあったかい音が聞こえてきて、それがすごく心地良くて癒やされた」
「そんなに、前から聞こえてたの?」
「天音さんからは、いつも優しい音が聞こえてた。でもいま思い返すともっと前かも。カウンターに行くと天音さんがいたんじゃなくて、俺があなたを選んでいたんだと思う。天音さんが触れた本は、不思議と穏やかな気持ちになれた」
意外な言葉に天音が視線を上げれば、誠はやんわりと微笑み、額にキスをしてくる。さらには愛おしいと言わんばかりに、頬を寄せてきて、二人の距離がなくなった。
優しく涙を拭われると、天音の胸はとくんと甘い音を立てる。
「俺、きっと初めて会った時から、天音さんのこと好きだった。だって天音さんが笑顔を向けてくれるだけで、嬉しかったんだ」
やんわりと笑った誠を見ていると、胸が高鳴って仕方がなかった。誤魔化すように彼の服を掴んだら、小さく笑ってまたキスをくれる。
感情表現が得意じゃない、なんて大きな間違いだ。
こんなにもまっすぐで折れない気持ち。
自分だけに見せてくれる特別な感情なのだと、思えば天音の胸はさらに高鳴る。
「この力って、たぶん俺のものじゃないよね? 天音さんの力は、誰にでも移ってしまうものなの?」
「誰でもってわけじゃない。すごく近しい人だけ。でもなんで僕の力が、他人に移るのかはわからないんだ。傍にいると香りが移るような感じで、いつの間にか」
「天音さんの心が相手に向いた時、かな?」
「かも、しれないけど。誠くんは、ちょっと早過ぎる。僕が君の心に触れるようになってから、まだ半年も経ってないんだよ。それなのにずっと前からだったなんて」
図書館のカウンターでやり取りしていただけの頃は、まだ天音の中に恋心はなかった。むしろ誠の片想いが、微笑ましいと思っていたくらいだ。
それなのに誠に力が伝わっていたのは、驚きしかない。
「きっと俺たち相性がいいんだよ。もう観念して、俺に落ちてよ」
「本当に僕で、いいの? 後悔しない?」
「俺は天音さんがいい。ちゃんとあなたの弱いところも抱きしめてあげる。それでも怖かったら言って、何回でも何十回だって、好きって伝えるから」
「きっと僕は君に、依存してしまう」
「いいよ。俺だけのことを考えて、俺だけを心に置いて、ずっと俺だけのものでいてよ。天音さんを独り占めできるなんて、優越感でしかない」
「誠くんって、わりと束縛系?」
「天音さんだけは誰にも盗られたくない」
恐る恐る伸ばした腕を、誠の背中に回すと、彼は鼻先が触れそうなほど顔を近づけてくる。その意味を悟って頬が熱くなるが、天音は少しだけ背伸びをして、彼に唇を寄せた。
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