幸せの場所

1/1
前へ
/25ページ
次へ

幸せの場所

「誠くん、鍵がない」 「また鞄の中で鍵を行方不明にしたの?」 「ごめん」 「いいよ」  ようやくたどり着いた玄関扉の前で、助けを求めるように天音が見上げると、誠は苦笑しながらベルトループに引っかけたキーチェーンを手に取る。  その中から鍵を一本選び出し、迷いなく鍵穴にさし込んだ。 「ただいまぁ」 「おかえり」 「誠くんもおかえり」 「うん、ただいま」  部屋に入ると、自然と言葉がついて出る。二人で一緒に帰ってきたこの場所は、二人で一緒に暮らす場所。今月の初めに越してきたばかりで、リビングには段ボールがまだ少し残っていた。  それでも二人分のものが溢れた空間は、かなり生活感に満ちている。 「やっぱりおうちが落ち着く」 「そこでまたうたた寝しちゃ駄目だよ」  帰り着いて早々、ラブソファに身体を投げ出した天音に、誠は呆れたようにため息をつく。けれど天音はクッションを抱きしめて、そこに顔を埋めた。 「当たり前なんだけど、この家って誠くんの声が溢れてて、気持ちいいんだよね」 「声や音よりも、本人で癒やされてよ」 「あ、……うん。そうだね」  ソファの空いた隙間に腰かけた誠は、ぽんぽんと促すように膝を叩く。その仕草に、天音は頬を染めながら身体を起こした。 「お邪魔します」  おそるおそる膝に腰かけると、天音に腕を回した誠が、満足そうに頬を寄せてくる。くすぐったい感触に思わず笑い声を上げれば、耳の縁にキスをされた。 「幸せ、だな」  自分の心を知る相手に、こんな風に寄り添えるのは、天音にとって生まれて初めての経験だ。  変わらず傍にいてくれる誠は、言葉にしてくれた通り、天音がどんな感情を湧かせても、抱きしめてくれた。  喧嘩をした日もあったけれど、最後には必ず好きだよと言ってくれる。 「僕ね、本当に小さい頃から、人の声を聞いていたから、それが当たり前の日常で。もし急に声が聞こえなくなることがあったら、静けさが怖くなるんじゃないかって、思ってたんだ」 「うん」 「でも誠くんが傍にいてくれるから、いまちっとも怖くない。それどころか、誠くんの声だけが聞こえるなんて幸せ、って思う。……少しだけ普通に近づけたんだって思ったら、急に肩の荷が下りた気がする」 「天音さん、辛かった?」  ぽつぽつと語る天音の言葉に、声を強ばらせた誠は、隙間を埋めるように強く身体を抱きしめてくる。背中からじわりと染み込んでくる彼の想いで、天音の胸はいっぱいになった。 「確かに辛いことも多かったけど、悪いことばかりじゃなかったよ。だって誠くんとこうして一緒にいられるのは、心を聞く力のおかげだもの」 「俺は、天音さんの最後の恋人でいたい」 「じゃあ、僕がおじさんになっても、おじいちゃんになっても、傍にいてね」 「いるよ。ずっとずっと。一緒に、暮らそうって言って良かった」  誠が小さく笑った気配を感じ、彼の顔を見上げると、やんわりとこめかみにキスを落とされた。 「誠くん、引っ越し、本当はどうするつもりだったの?」 「天音さんと仲違いしたままだったら、別な街に、引っ越してたかもしれない。避けられ続けるの、さすがにキツいし」  なにを返したらいい? ――そう問いかけた天音に、誠は一緒に暮らすことを提案してくれた。  ちょうど彼は、住んでいたアパートが建て替えをするために、半年以内に引っ越しをしなくてはならなかったのだ。  急な申し出にその時は驚きもしたが、天音としては渡りに船だ。自分も仕事を辞めて引っ越すつもりでいた。  誠と恋人同士になれただけでなく、一緒に暮らせる。ずっと一緒にいられること思えば、返事は一つしかない。 「ものごとってタイミングだね」 「タイミング?」 「もう一歩ズレてたら、俺たち言葉も交わせないまま、会えなくなってた」 「ごめん」 「なんで謝るの? 天音さんだけが悪いわけじゃない。俺がちゃんと、気持ちを言葉にして伝えなかったのも悪い」 「これからは失敗を活かして、二人で成長していこうね」 「うん」  天音はいままで、自分さえ我慢していればいいと思ってきた。そうすればすべてが丸く収まるのだと。  愛のあり方を間違えてきた。 「でもこんなに幸せで、いいのかな?」 「天音さんの不安症はなかなか治らないね」 「だって天秤はどちらかが重いと、バランスが取れないものだよ」 「心配しなくても、俺はどんなことがあっても傍にいるから。天音さんは目いっぱい俺に愛されていればいい」 「じゃあ、毎日、ハグして欲しい。キス、して欲しい。恋人に触れられて、こんなに幸せだって思ったことない」 「いっぱい抱きしめてあげるよ。俺の愛が伝わるくらい。俺の声が聞こえるくらい。身体に染み込ませてあげる」  柔らかくて優しい声。この声を聞いたら、その想いに応えたくなる。振り向いてしまいたくなる。  キラキラと煌めく温かい声に、愛を囁かれたかったのは、自分だ。初めて声を聞いた時から、彼の持つ優しさに惹かれていた。  自分もこんな風に想われたいと、心のどこかで思っていた。 「僕はようやく、自分の気持ちに気づいたかもしれない」 「俺のことが大好きってこと?」 「うん。君に、まっすぐ愛されたかった。ずっと羨ましかったんだ」 「羨ましい?」 「図書館で誠くんが落とした本を拾った時、初めて声が聞こえた。好きって気持ちがいっぱい詰まってた」 「落とした、本。……ああ、あれか。高校の頃にあいつが誕生日にくれた、……焼却しようか」 「ええっ? 駄目だよ! 気に入ってる本なんでしょ?」  至極真面目な顔で、さらっととんでもないことを言う誠に、天音はひどく慌てた。引っ越しする前も、サボテンを捨てると言いだして、止めるのが大変だった。 「本にも罪はないんだよ?」 「でも天音さん以外へ向ける感情が、そこに残ってるのは嫌だから」 「大丈夫だよ。もう誠くんの気持ちを疑うだなんてこと、しないから」  難しい顔をして眉を寄せる、誠の頬を優しく撫でると、彼の手が重なった。じっと見つめてくる瞳と、ぬくもりから言葉が伝わる。 「僕も、大好きだよ」 「うん」 「誠くんといると、怖いものがどんどんなくなる。やっぱり誠くんは、すごいな」 「天音さんへの愛で溢れてるからね」  重なった手から、誠の優しさが染み込んでくる。感じる温かさに、天音はうっとりと目を細め、ぬくもりを確かめるように唇へ引き寄せた。 「誠くん、僕を好きになってくれてありがとう。誰かを想うことが、愛されることがこんなにも満たされるんだって、初めて知った」 「天音さんが俺を見つけてくれたんだよ。たくさん聞こえる中から、俺をすくい上げた。全部、天音さんのおかげ」 「僕、生まれて初めて、本当にこの力があって良かったって思えた。誠くんの傍にいたら、全部がプラスになりそうな気がする」 「きっとなるよ。これから二人で、プラスにしていこう」 「誠くんの恋人になれた僕は、幸せ者だなぁ」  心を抱きしめてくれた誠は、天音のために奇跡を巻き起こした救世主だ。  一生、人の声に振り回されるのだろうと思っていた。自分を本当に愛してくれる人は、いないのだと諦めていた。  それなのいまは、幸せが満ち溢れている。煌めいた幸せはきっと尽きることなく、傷ついた心を癒やしてくれるはずだ。 「天音さん、可愛いね」 「誠くんに愛されてるからね」 「じゃあもっと愛を込めようか」 「溢れちゃいそうだね」  両手を伸ばして、愛おしい人をぎゅっと抱きしめる。たったそれだけのことで、幸せになれるのだと、初めて知った。  これが初めての、本当の恋。 触れて触って抱きしめて/end
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!

831人が本棚に入れています
本棚に追加