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純粋な優しさ
思いがけない場所で遭遇して、言葉を交わしてから、中原は図書館に訪れると必ず、天音に挨拶をしてくれるようになった。
なにか特別なことを話すわけではないけれど、いつしか彼は、天音の日常の中に溶け込み始めていた。
「あれ? 遠藤くん、今日は眼鏡だった?」
ふいに横から覗き込まれる気配がして、天音はパソコン画面に向けていた顔を上げる。すぐ傍にいたのは、同僚の弥生だ。
彼女は今年の春からこの図書館に勤めているが、天音と同じ名字で歳も近いこともあり、よく話しかけられる。
「ちょっと目の調子が悪かったから、さっきコンタクトを外したんだ」
「そうだったんだ。眼鏡、知的な感じですごく似合ってる。でも遠藤くんは元がいいから、なんでも似合いそうだけど」
「なんでもは言いすぎだよ」
「いやいや、遠藤くんのキラキラオーラって、ほんと半端ない。このあいだ彼氏が来たんだけど、すげぇ美人がいたって、連呼しててさ。もう笑っちゃった」
「そこは怒るところじゃないの?」
「相手が遠藤くんだと、笑いしかないな」
恋人の発言を笑い話にできる、彼女の大らかさに、天音は呆気にとられてしまった。自分だったら、間違いなく嫉妬をしてしまうだろう。しかし周りから見ると、そうは思われないようだ。
――これだけ顔がいいと、嫉妬されるほうが多いんだろうな。相手に嫉妬すること少なそう。顔が綺麗って羨ましい。
ふいに机に触れていた、弥生の声が聞こえてくる。純粋な羨望で、悪気はないのだろうということは、声の調子から伝わってきた。
それでも外見だけでこう、と決められてしまうのは、寂しい気持ちになる。
天音はうっかり外していた、手袋をはめながら、小さな苦笑いを浮かべた。
「もうカウンターのほうはいいの?」
時計を見ると十九時三十分を少し回ったところ。二十時に閉館になるので、時間は残りわずかだが、裏に引っ込むにはまだ早い。
「雨のせいか、お客さん全然だよ」
「そっか」
今日も朝からぐずついた天気で、降ったり止んだりの繰り返し。日の暮れた窓の外を見れば、外灯の光の中で雨が縦線を描き、降り注いでいる様子が見て取れる。
「今日はもう誰も来る様子がないから、早めに片して、時間になったらすぐ帰ろうって話してたの。遠藤くんのほうは終わりそう?」
「まだ戻してない本が残ってる。ちょっと片付けてくるよ」
「いつでも上がれる準備、しておくね」
「了解」
閉館のあとはいつも片付けや点検があるので、上がるのは二十一時近くだ。早く帰れることが嬉しいのか、彼女は軽い足取りでホールのほうへ戻っていく。
その後ろ姿を見送ってから、パソコンのデータを保存し、天音は席を立った。
「雨でけぶってるから、いつもより暗いな」
静かな館内。辺りを窺ってみるが、いまは職員しかいないようだ。町の小さな図書館ではあるけれど、普段であれば仕事帰りの人たちが遅い時間に訪れる。
しかしこうも雨が強いと、まっすぐ帰りたくもなるだろう。天音も早く家に帰って、ゆっくりしたいという気持ちが湧いた。
「よし、これで全部だ」
黙々と作業してしばらく、配架用のブックトラックが、ようやく空になる。腕時計を確認すれば、閉館五分前だった。
早く戻らねば、同僚たちが首を長くして待っているだろう。事務所へ向かうべく、天音は足を速める。
だがふと図書館の入り口の前で足を止めた。扉の脇にはめられた、磨りガラスの向こうに、人影が見えたからだ。
案内看板が中に入っているということは、もう扉は施錠されているはずだ。
この図書館には返却ポストがないので、時間外は受け付けられない。
閉館に間に合わなかった人がいたのだろうかと、思わず天音はすぐ傍にある、職員用の出入り口から外を覗いた。
「返却ですか?」
玄関ポーチに立つ人に天音が声をかけると、その人は弾かれるように振り返る。薄明るい外灯に映し出されたのは、赤髪の青年だ。
「え? 中、原くん?」
じっと見つめてくるのは、今日も図書館で挨拶を交わした中原だった。十八時頃には帰っていった、はずだ。
それがなぜまたここにいるのだろうと、天音の頭に疑問符が浮かぶ。
「遠藤さん、仕事はもう終わり?」
「えっ? ああ、うん。もう終わる、けど」
「これ返しに来た」
ずいと目の前に差し出されたのは、紺色の長傘だった。見覚えのある傘は、天音が中原へ貸したものだ。
数時間前、いまと同じくらい雨が降りしきる頃に、彼は傘を持たずに玄関先で立ち止まっていた。それを見かねた天音が、自分の傘を貸したのだ。
「雨、止みそうにないし。傘がないと困ると思って」
「そっか。ごめん、わざわざ」
長傘がなくとも、折りたたみの傘があるので、困りはしないのだが。おそらく彼は一度家に帰って、閉館時間に合わせてここへ来たのだろう。
この雨の中を、天音のために。
「ありがとう」
「うん」
「……あっ」
目の前に差し出された傘を受け取った、瞬間――光がふわっと傘から立ち上り、空間に溢れるように広がった。それとともにいつもの『声』が聞こえてくる。
「どうかした?」
「……傘、忘れたわけじゃないんだね」
「え?」
伝わってきたのは喜びの感情だった。
中原は今日、傘を忘れたのではなく、自分の傘を想い人に貸したのだ。少し前にお礼を伝えられたばかりなのか、心の中が嬉しいという感情で溢れている。
煌めいた想いは、光の洪水、と言えるくらい眩しい。そんな中でふと、小さな感情がふんわりと浮かんだ。
――お人好しだな。優しくていい人。でも雨の日に傘を貸すなんて、もしかしてうっかり屋なのかな?
かすかな『声』だけれど、それは天音に向けられたものだった。
「君も十分、うっかり屋だよ」
「なに?」
「不思議だな。君の中にいるのは」
いつも中原の心の声は自分のことと、好きな相手のことばかりだ。ほかの誰かへの感情が、本に残っていることはほとんどなかった。
「さっきからなんの話をしてるの?」
「……実はね。僕、ものに触れると心の声が聞こえるんだ」
「そういう、冗談を言う人なんだ」
「こんなこと、信じる人なんかいないよね」
普段から聞いている彼の声。心の内側に自分がいることがひどく嬉しくて、ついうっかり秘密を口にしてしまった。いままでそんな軽率な行動を、したことがなかったので、自分でも驚く。
とはいえこんな突拍子もない話を、鵜呑みにする人はいないだろう。
挨拶する程度でしかない他人の話だ。訝しげな顔をする中原に、天音は小さく笑みを返した。
「ごめん、聞き流して。傘、ありがとうね。帰り道、気をつけるんだよ」
「たとえば?」
「え?」
「たとえばどんな声が聞こえるの?」
「信じるの?」
聞き返されるとは、思っていなかった天音は、ほうけたように中原の顔を見つめた。しばらく黙って見つめ合っていると、雨が降り落ちる音がやけに耳につく。
「信じるかは、話の内容による」
「そうだよね。……うーん、たとえば」
ここは当たり障りのない話をするのが、良いのかもしれない。そう思うものの、それでは中原は信じないだろう。天音としては適当に誤魔化して、彼の信用を失いたくなかった。
「たとえば、……中原くんが大事にしてる、サボテンの名前はユキとか」
「えっ」
「信じた?」
驚きの声を上げた、中原の顔が見る間に赤く染まっていった。
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