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その姿を確認するやいなや、更紗は一目散に駆けだした。
かつては恋焦がれ、ずっと側にいたいと願った相手。しかし今では、もう思い出したくもなかった。
どこをどう辿ってきたのかわからない。とにかく思いつくままに走り、電車に飛び乗って、この地へやって来た。そしてまた駆ける。
街灯が少ない通りは閑散としており、とにかく暗い。月の光もない闇夜だった。
ハァハァと苦しげな息が思いの外大きく聞こえ、その吐息に煽られ、気ばかりが急く。
逃げなければ。
更紗の思考はそれだけに囚われていた。周りなど見えていない。ただ暗闇を走り続ける。
「あっ!」
足を取られ、勢いよく転ぶ。すぐに立ち上がろうとするが、痛くて立ち上がれない。
捻ってしまったのだろうか。怪我の状態を確かめようにも、こう暗くては確かめようがない。
「更紗……」
ギクリと身体が強張り、心臓が激しく脈打つ。まさか、と思う。
彼の姿を確認して、すぐに逃げ出したのだ。更紗の姿を彼が捕らえたとは到底考えにくかった。にもかかわらず、今最も会いたくない相手が、更紗の背後にいる。
「更紗、どうして逃げるんだ?」
その声に、身体がぶるりと震えた。あれほど好きだった声は、今や恐怖の対象でしかない。
姿を見たくはない。だが、意思とは反し、更紗はゆっくりと後ろを振り返った。
「更紗、僕と一緒に帰ろう」
どこへ? どこへ帰るというのだ。
「玲二さん、あなたとはもう終わったんです」
「終わっていない」
「終わったわよ! あなたが私を裏切ったんじゃない!」
更紗の目にうっすらと涙が浮かぶ。
目の前にいるのは、つい数ヶ月前まで付き合っていた男だった。
一途に愛し、いずれは結婚するのだと信じていた。そして彼も、同じ気持ちだと思っていた。だが、そうではなかったのだ。
「あなたには家庭があった! それを隠して私と付き合っていただけじゃなく、バレた途端、一方的に私を捨てたのはあなたの方でしょう!?」
結婚している素振りはなかった。上手く隠されていたのだ。更紗の前では指輪を外し、独身の振りをしていた。
同じ会社ではあったが、勤めている事業所が違ったため、そういった情報は入ってこなかったし、その辺りは彼も用心していたのだろう。更紗は彼の言うことを全て信じ切っていた。多少おかしいと思うことがあっても、それに目を背けてきたところもある。だから、一方的に別れを告げられ、連絡が途絶えた時も、ショックではあったが自分も悪かったのだと無理やり気持ちを納得させた。
しかし、同じ会社に勤め続けることはできなかった。仕事上、どうしても関わりを絶つことはできず、それに堪えられないと思った更紗は、会社を退職した。
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