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「僕が悪かったよ、更紗。もう一度やり直そう」
「やり直す? あなたがやり直すべき相手は奥様でしょう?」
心に深い傷を負った。
しばらくは何もやる気がおきず、家の中に閉じこもる日々が続いた。だが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
頼るべき親がいればよかったのだが、更紗の両親はすでに他界しており、頼れる親戚などもいない。天涯孤独の身の上、ずっと閉じこもっていては生きていけないのだ。
更紗は近所のコンビニでアルバイトをしながら、穏やかな日々を過ごすことで、心身の回復に努めていた。そしてようやくその兆しが見え始めた頃、彼が再び更紗の前に現れたのだった。
「あそこには、僕の居場所はもうないんだ」
「そんなの知らないっ!」
妻に不倫がバレて、更紗との関係を切った。だが、彼の妻は許せなかったらしい。それで、家庭に彼の居場所はなくなった。すると、彼は更紗に復縁を迫ってきたのだ。
当然そんなことを受け入れられるはずもなく、更紗は突っぱねた。しかし彼は納得せず、更紗につきまとうようになる。バイト先や家にまで押しかけ、更紗は一度引越しをした。だが、その引越し先も今日見つかってしまったのだ。彼の姿を家の前で見かけた瞬間、更紗の目の前は真っ暗になった。
逃げなくては。
そして、ここまでやって来た。
ここがどこなのかわからない。更紗でさえ知らない場所なのに、彼がいること事態がおかしい。追いかけられていたわけではない。彼は更紗に気付かなかったはずだ。追いかけようがない。それなのに──。
「更紗、帰ろう」
「ひっ!」
喉が詰まったような、おかしな声が出た。何故なら、彼の周りにどす黒い煙のようなものが噴き出したからだ。その煙は彼を囲い、禍々しい雰囲気を醸し出している。
これはなんだ? どうしてこんなものが彼を取り巻いている? そして、どうして自分にそれが見えるのか。
恐怖で身体が動かない。
暗闇に目が慣れてきて、改めて彼をよく見てみる。そして、愕然とした。
そこにいたのは、更紗の知る彼ではなかった。
目は虚ろで、口元がだらしなく開いている。身体は脱力したようにゆらゆらと揺れていた。これは、明らかに様子がおかしい。
「……来ないでっ」
少しずつこちらに近づいてくる彼に、更紗は声を上げる。だが、蚊の鳴くようなその声は、彼には届かない。
ゆっくりと近づいてくる。怖い。あまりの恐怖に声も出なくなる。このまま彼に捕まり、その後どうなってしまうのか。
彼の腕が伸びてくる。このままでは確実に捕まってしまう。
更紗は死を覚悟し、ぎゅっと強く瞳を閉じた。その瞬間──
「ギャウッ!!」
動物の吠える声がし、それに続いて彼の悲鳴が聞こえた。
目を開けると、更紗の側には子犬がいて、全身の毛を逆立て、鋭い視線と唸り声で彼を威嚇している。それだけではない。すぐ目の前には、更紗を庇うように立つ背中があった。
房のついた白い飾り紐で一つにまとめられた長い髪、かなりの長身、細身ではあるがしっかりとした体つきから、その人物が男性であることが窺える。
しかし、更紗は目を疑った。何故なら──その男には、獣の耳と尾があったからだ。
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