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その日以降、朔は家に戻らず、仕事も寝食も母屋でするようになった。
更紗が母屋にいる時は家に戻り、家に戻ると母屋へ行く。更紗を避けるように行動するようになった朔に、更紗はひたすら落ち込んでいた。
そんな更紗を労わるように、ツキが常に側にいる。朔の代わりに自分が更紗を守るとでもいうように。どこへ行くにもツキがついてくる。眠る時も、ツキと一緒だ。
「更紗さん」
「あ、こっちはもう終わりました」
母屋の掃除を終え、家に戻ろうとしていた時に春南に声をかけられた。
ツキは嬉しそうに春南の足元に駆け寄り、じゃれる。
春南は目に見えて元気のない更紗を気遣いながらも、直接的に問うてはこない。何故なら、原因を知っているからだ。そして、どうしてこうなってしまったのか、その理由さえも。
更紗はすぐにその理由を聞こうとした。しかし、更紗が尋ねようとすると、その気配をすぐに察知し、話題を変えたり立ち去ったりする。
春南はいつだって更紗の味方で、ここへ来てからいろいろなことを教えてくれた人だ。意地悪でそんなことをするはずがない。ということは、これは更紗自身が考えなくてはいけないことなのだ。
それに気付いてから、更紗は日々、このことばかりを考えるようになった。だが、いくら考えてもわからない。あの日のことをつぶさに思い出す度に、涙が溢れてきて胸が苦しくなる。
「ありがとう。それじゃ、家に戻りましょうか」
「はい」
あれから、悪霊たちの動きがパタリとやんだ。海の事故も、ひとまず収まっているらしい。
新月は過ぎ、今度は朔の力が落ちる番だ。そんな時だからこそ、静かなのはありがたいが、逆に不気味にも思える。
陽の怪我はもうすっかりと癒え、これまでの借りを返すとばかりに毎日気合十分で待機しているのだが、出番はない。
悪霊退治の前には、必ず互いの額を合わせ、力を注ぐ儀式をしていた。その機会もなくなり、朔と顔を合わせるタイミングがない。母屋と家を行き来する際に少しでも会えればいいのだが、どういうわけか会えない。これが偶然のはずはなく、朔が更紗の匂いを察し、避けているのだろう。
「こら、なんて顔してるの」
「え……」
油断すると、すぐに沈んでしまう。心配させてはいけないと思うのに、春南相手だとつい気が緩んでしまう。今や春南は、更紗にとって姉のような存在になっているのだ。
春南は困ったような、それでいて悲しげな表情で更紗を見つめる。
「どうして朔さんが更紗さんを避けているか、わかる?」
更紗は力なく首を横に振る。
「いえ……。でも、私がいけないことをしてしまったんだと……」
「……ある意味、そうね」
「え?」
ある意味とは、どういうことだろう?
更紗の縋るような瞳に、春南が肩を竦める。「甘いわね、私も」などと呟き、縁側にゆっくりと腰掛けた。更紗を振り返り、自分の隣をトントンと叩く。ここに座れということだろう。更紗はおずおずと春南の隣に座った。
更紗がちょうど座ったタイミングで、ツキが更紗の膝の上に乗る。そして、心配そうに小さく鳴き、更紗を見上げた。
「更紗さんは月読命様に力を与えられ、狛犬の嫁に選ばれた。そして、月川神社の宮司と契約を交わし、仮の婚姻を結んだ」
「……はい」
「この時点では正式な婚姻じゃないってことは、もう話したわよね。三ヶ月もの間をともに暮らし、寄りそい、お互いの心を通わせる、いわば婚約期間中のようなもの」
「はい」
「お互いに好きで、同意があるなら、身体の関係を結んだっていい。むしろそれは自然な流れだわ。ただそれは……一般での話」
「……」
『そろそろ、二人にとっては辛い段階に入るかもしれないわね……。朔さんに限っては大丈夫だと思うんだけど、更紗さん、朔さんを求めるのはもう少し待ってね』
以前に春南から言われた言葉が、ふと脳裏を過った。
朔を求めるのは、正式に婚姻が成立した後でなくてはならなかった。更紗は自分の想いを止められず、あの日、朔を求めてしまったのだ。
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