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母屋での生活は、それなりに快適だ。なにせ広いし、造りがゆったりとしている。司狼がいるが、ここに朔がいる理由もわかっているので、必要以上に構ってはこない。
朔の仕事はプログラミングで、パソコンがあればどこでも仕事はできる。いつも使っているデスクとチェアがないので多少は集中に欠けるが、今の自分の精神状態からすれば、それはあまり関係ないだろう。
朔は、仮住まいさせてもらっている母屋の一室から、ぼんやりと外を眺めていた。
「平和すぎて、逆に不気味だな」
独り言を呟き、溜息をつく。
牛鬼に擬態した悪霊の集合体と対峙したあの日以降、小物が偶に出るくらいで後は静かなものだ。朔一人でも十分対処ができたので、陽は怪我が完全に治るまでは休ませていた。そんな陽の怪我も、もうほとんど治っている。
今は以前のように交代に戻していたが、悪霊たちはここ数日全く姿を見せていない。海の事故も収まっているようで、司狼は漁師たちから盛大に感謝されていた。しかし、どこかしっくりこない。
「親父が祈祷した時は一旦収まり、しばらく間があくとまた事故が起こると聞いていたのに」
それに、あれほど力の強い妖怪に擬態できるほどの悪霊たちは、どのようにして集まったのか。
悪霊たちは基本単独で動く。偶々近くにいた霊同士が合体することはあるが、それは珍しい部類に入る。だから、あの凄まじい数の悪霊がどこから来たのか、どのようにして結びついたのかがどうしても気になった。それが不明なままでは、完全に解決したとはいえない。
「……更紗」
嫌な予感に心が塗り潰されそうになると、無意識のうちに更紗の名を口にするようになっていた。そうすると、不思議と気持ちが落ち着き、同時にホッとするような温もりを感じるのだ。
初めて会った時から、警戒心の欠片も感じなかった。どんな人間に対しても警戒心の強い朔からすると、自分でも信じられないほどだ。
悪霊に襲われそうになっていたから助けた。最初はただそれだけだった。
神社の敷地内、もしくはすぐ近くで、一般人が悪霊に襲われることもまれにある。結界があるとはいえ、そこをすり抜けて神社の外にまで出て行こうとする悪霊も中にはいるのだ。
いつもならさっさと退治し、すぐにその場から退散する。助けた人間がどんな人物かなど確認もしない。
しかし、更紗と初めて会ったあの日は違っていた。
悪霊に憑かれていた男は、更紗に酷く執着した様子を見せており、すでに自我はなかった。更紗は恐怖のあまり打ち震え、顔色を失くしていた。しかしその目は相手を真っ直ぐに見据え、気丈にも「来るな」と叫んでいた。
身体が小さく華奢で、弱々しい女。普通なら声も出せないか、叫ぶにしても恐怖の対象から目を逸らし、背を向ける。だが更紗は、一瞬たりとも相手に背を向けなかった。
それもそのはずで、更紗には男の周りに蠢く霊の姿が見えていた。そこから目が離せなかったのだ。
霊感の強い人間なら見えることもあるが、見えたとしてもぼんやりというのが関の山だろう。しかし更紗にははっきりと見えていた。しかも、朔の耳と尾まで。
その瞬間、ようやく自分の嫁となる運命の女に出会えたのだと、朔にはわかった。
「もっと理性的な人間だと思っていたんだがな……」
あの日の自分を思い出す。
気持ちが高ぶっていたとはいえ、自分を全く制御できなかったことに驚く。
更紗の潤んだ瞳、上気した頬、甘い吐息、そして何よりトドメを刺したのは、あの言葉──。
『朔さんが……欲しい』
身体中の血液、そして脳が沸騰するかと思った。
欲しい。その想いは、すでに朔も抱いていた。それでも、その想いをコントロールすることはできていたのだ。更紗も自分を欲していると知った、あの時までは。
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