1072人が本棚に入れています
本棚に追加
*
ひんやりとした冷たい空気に、更紗は身体を震わせる。空を見上げると、月の姿をはっきりと捉えることができた。
見えているのは、くっきりと半分だけ。今夜は、上弦の月。
朔は、陽とともに神社の方へ向かった。
霊の姿は見えるが、その気配までは感じ取ることができない。そんな更紗でも、ねっとりとまとわりついてくるような嫌な空気に胸がざわつく。
「朔さん……無事でいて」
胸の前で手を合わせ、そう祈る。
いつものように額を合わせた時、行かせたくないとどれほど思ったことか。
自分の中の月読命の力を全て朔に注ぐことができればいいのに。
とにかくできるだけ多くの力をと、更紗はいつも以上に集中した。
『更紗、もう大丈夫だ』
『あと、少し……』
『あまり時間をかけると……』
陽を待たせてしまう、と更紗はようやく額を外す。朔を見上げると、朔は僅かに顔を背けていた。よく見ると、ほんのりと耳が赤くなっている。
『朔さん?』
朔は顔をこちらに向け、切なげに目を細めた。そして、更紗の額に唇を落とす。まるで、綿がふわりと触れるかのように。
『離れ難くなる』
『……っ』
『それじゃ、いってくる。できるだけ早く終わらせて戻るから』
『はい。……待ってます』
朔の口角が緩やかな弧を描く。そしてその瞳はますます細まった。
しかしすぐにいつもの淡々とした表情に戻ると、艶のある漆黒の髪をなびかせ、颯爽と出て行く。黒い髪によく映える白の髪結紐は、今日も更紗が結んだ。
「今頃……もしかして悪霊と戦ってるのかな……。ね、ツキ」
「ワォン」
更紗の側にはツキがぴったりとくっついている。
ツキは基本、自分の行きたいところへ行き、留まりたい場所に留まる。眠る時だけは母屋だが、それ以外は自由だ。そんなツキは、新月を過ぎた頃から更紗にくっついていることが多かった。
春南は「よほどツキに気に入られてるのね」などと言うが、更紗はそれだけではない別の理由があるような気がしている。それが何なのかはわからないけれど。
そんなことをぼんやりと考えていると、突然ツキの耳がピンと立ち、慎重に辺りを見渡すような仕草を見せた。
「ツキ?」
「グウゥ……」
喉の奥で唸るような音を出す。普段あまり聞かない声だ。それに、ツキの全身の毛が逆立っていた。
「ツキ、もしかして朔さんが危ないの?」
ツキの異変に、更紗は気が気でない。
上弦の月、陽と朔の力は二人合わせても最弱になる。その上、朔は満月に向かって力が落ちている最中なのだ。いつもなら軽くいなせるような場面でも、怪我を負うようなことになっていることは十分に考えられる。
「ツキッ! ……え」
いきなり更紗の耳に、得体の知れない音が飛び込んできた。聞こえるというより、頭に響くといった感覚なのだが、その感覚に集中していくと、それは人の声のように感じた。
「なに……?」
その声は掠れ、今にも消えてしまいそうだ。それが男性のものだと確信すると、更紗は青ざめ、後先を考えずに駆け出す。
「朔さん!」
微かに聞こえるその声が、朔のものかどうかはわからない。だがもし朔だったら。そう思うと、居ても立っても居られなかった。
「ウォンッ! ウォンッ!」
ツキが何度も吠えて、更紗を止めようとする。しかし、更紗は止まらなかった。そのまま家を飛び出してしまう。
「ウォーーーーンッ!」
ツキが遠吠えのような声を出したことはわかった。だが更紗はそれにも構わず、一目散にその「声」めがけて駆けて行った。
最初のコメントを投稿しよう!