上弦の月

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 更紗は大きく目を見開く。どうして自分が狙われるのかわからない。  だが、憑りつかれていても、玲二の意思だけは生きているのか。だとすれば、司狼の言うとおり逃げなければ。 「司狼さんはっ……!」 「いいから! 更紗をみすみすあいつに渡すわけにはいかん! 行けっ!」 「……っ」  更紗は唇を強く噛みしめ、司狼から背を向ける。  今自分のできることは何もない。ならば、司狼の言うように逃げるしかないのだ。そして、更紗が駆けだそうとしたその時── 「ぐあああっ!」  振り返ると、悪霊に憑りつかれた玲二が結界を越え、神社の敷地内に入っていた。そしてあろうことか、司狼の首を片手で締めあげている。 「司狼さん!」 「ぐぅっ……更紗……逃げろ……」  更紗は首を横に振る。このままだと司狼が殺されてしまう。  月川神社のこと、月読命のこと、獅子と狛犬のこと、その嫁のこと、司狼はいろいろなことを更紗に教えてくれ、また可愛がってくれた。そんな司狼が殺されるようなことがあってはならない。絶対にだ。  更紗は覚悟を決めた。  ツキもどこかへ飛ばされ、司狼もこんな状態なのだ。玲二に憑りついている悪霊たちは、よほど強力な力を持つ集合体なのだろう。 「玲二さん、司狼さんを離して」 「更紗……取り戻す……」  ざらざらした耳障りな声に耳を押さえたくなる。玲二はすっかり霊たちに操られており、自我などない。そんな人形のような彼に、名前を呼ばれることさえ不快だった。それでも、この場を何とかできるのは自分しかいないのだ。  更紗は震える身体に鞭打って、玲二に近づいていく。 「さら……いかんっ……逃げ……ぐぅっ!」 「離しなさい!」  更紗の声に、玲二の手が投げ捨てるように司狼から離れる。司狼はそのまま地面に叩きつけられた。  激しくむせる司狼に駆け寄り、その背をさすると、彼の瞳がうっすらと開く。よほど強く首を絞められていたのか、まだ苦しげな表情だ。 「更紗……」 「司狼さん、玲二さんの目的が私なら、それが叶えば……」 「いかんっ」 「玲二さんの自我はないようですが、悪霊たちは玲二さんの意思は引き継いでいるみたいです。だから私が彼と行っても……すぐに殺されたりはしないと思います」  司狼は何度も首を横に振る。だが、更紗がそれに頷くことはない。  司狼を殺させるわけにはいかない。彼は月川神社に絶対必要な人間なのだ。 なら、狛犬の嫁である更紗は? 「例え私に何かあっても……月読命様は、また新しい嫁を選ぶことはできるでしょう」 「朔の……あいつの気持ちはどうなる」 「……」  朔の顔が脳裏に浮かぶ。  これでもかと整った容姿、夜陰に紛れるほどの見事な黒髪、淡々とした表情に鋭い視線、低い声、ぶっきらぼうな言葉。しかし、本当はとても、とても優しい男性(ひと)。更紗をこの上なく大切に慈しみ、守ってくれた男性。こんな人に出会ったのは初めてだった。  玲二と付き合っている時は、玲二以上に愛せる人はいないと思っていた。しかし、朔と出会った今は、それとは違う想いを朔に抱いている。  ──朔よりも大切にしたい人はいない。何が何でも失いたくない人。  そして、朔の大切に思う人間が傷つくなど、更紗には耐えられない。 「玲二さん、私があなたとともに行けば、月川神社にはもう手を出さないと約束できますか?」 「更紗!」  司狼の叫びをあえて無視し、更紗は一歩一歩玲二に近づいていく。玲二は更紗に手を伸ばし、ついに更紗を捕まえる。 「約束する」 「更紗!!」  更紗は司狼を振り返り、小さく頭を下げる。これまでどれだけ世話になったかを考えると、こんな挨拶では全然足りないけれど。 「さよなら」 「更紗ーーーーっ!」  次の瞬間には、更紗を抱いた玲二の姿は消えていた。まるで煙のように、きれいさっぱり跡形もない。  司狼はギリと歯を食いしばり、拳を地面に叩きつけた。 「くそっ……」  神社裏では悪霊が大量発生していた。陽と朔はそれにかかりきりになっている。そして頼みの綱であるツキは、相当遠くへ飛ばされてしまったようだ。  司狼では全く歯が立たなかった。情けなさに死にたくなる。自分の目の前で、息子の大事な嫁が攫われてしまった。しかも、自ら身を差し出すようにして──。 「更紗は……必ず取り返す」  司狼は強く頭を振り、息子たちの元へ駆けて行った。
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