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日が暮れても司狼は戻ってこなかった。途中で何度か連絡が入ったが、怪物は祓っても祓っても出現を繰り返しているのだという。
船を沖に流した以外は、この怪物は特にこちらに危害を加えてくることはなかった。せいぜい人間を驚かす程度だ。それでも、腰を抜かしたり大慌てで逃げる際に転んだりと、軽傷はさせている。大きな害を及ぼさないとはいえ、司狼はその場から離れることはできなかった。
「司狼さん、大丈夫でしょうか」
夕食の片付けをしながら、春南が心配そうな顔をする。司狼は早朝から今まで、ずっと一人で戦っているのだ。春南の心配はもっともだった。
しかし、陽と朔が動くわけにはいかなかった。二人が分散することは、それこそ悪霊たちの思うツボだ。司狼が大変なのはわかりきっていたが、どうすることもできない。司狼もそれはわかっているだろう。
「大丈夫だよ。ああ見えて、親父はまだまだ現役だ。霊能力も腕っぷしも、俺らに引けは取らない」
「陽、それ、親父に言っていいか?」
「やめろ、朔! 「お前らなんぞ、ヒヨッコもヒヨッコだ! キングオブヒヨッコどもめ!」とか、訳わかんないこと言い出すから! そんで拗ねるから! 面倒くさい!」
「……いきなり技かけてきやがるからな」
「温厚なフリして、喧嘩っぱやいんだよな……」
陽と朔のやり取りに、春南がクスクスと笑う。
弱気になる自分に喝を入れ、春南は背筋を伸ばす。
二人はいずれ、戦いに赴く。その間、この家を守るのは自分なのだ。弱気になっている場合ではない。
こんな時、更紗がいれば、と思う。自分を抑え、いつも控えめな更紗だが、芯は強い。彼女の真っ直ぐな瞳を見ていると、獅子の嫁として月川神社へ来た当初のことが思い出される。不安や焦り、だがなりふり構わず突っ走っていた、あの頃に心は帰る。
更紗を守りたいと思っていた。誰かを守りたいと願うことは、自分をも強くしてくれる。そんな存在である更紗が今ここにいないことは、春南にとっても痛手だった。
春南は朔を見上げる。
「朔さんに比べたら、私なんて」
誰にも聞こえないようそっと呟く。
更紗がいないことに誰よりもダメージを受けているのは、朔だ。
満月の夜、朔の力はほぼ皆無に等しくなる。そんな時に更紗がいない。月読命の加護を分けてもらえる相手がいない。
更紗がここに来る以前もそうだった。その時は春南がその代わりをしていたのだが、本物の嫁に敵うはずもない。それでも、朔は戦ってきた。
朔は待ち望んでいた。狛犬の嫁が現れることを。それがどんな人間であれ、月読命が選ぶのなら誰でもいいとさえ思っていただろう。
だが、今は違う。更紗でなくてはいけないのだ。朔はもはや、更紗以外の人間を嫁とは認めないだろう。例え、月読命が更紗ではない誰かを嫁に選び直したとしても。
「! 陽……」
「なんか……いるな」
他愛もない言い争いをしていた二人の表情が、一瞬にして険しくなる。春南も顔を強張らせた。
いよいよ、始まる──。
「陽、朔さん」
「春南、頼む」
陽と春南は額を合わせる。春南は精一杯の想いを込め、月読命から賜った力を陽に注ぐ。そして、朔にも。
「本物の嫁には遠く及ばないけど」
「いえ……」
視線を伏せる朔に、春南は思いを託す。
「絶対に更紗さんを離さないで。あなたのお嫁さんは、更紗さんだけ」
「……っ」
「更紗さんを連れ戻してきて。大丈夫、朔さんは一人じゃない。陽もいるし、ツキだって」
託された思いに抗えない、朔はそういう人間だ。それに、いまや朔にとって更紗は手放せない存在のはずだ。そうでなければ、彼が暴走することなどありえなかったのだから。
ツキが邪魔をしたあの時、朔は一線を越えようとしていた。それがまだ許される時ではないと知っていたのに。
「必ず更紗を取り戻す」
「行くぞ、朔」
陽の言葉に頷き、朔は長い髪を翻し、春南に背を向ける。陽は春南を見つめ、声には出さず口元だけで囁いた。
『必ず全員で戻る』
春南は笑顔で頷き、二人に向かって大きく手を振った。
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