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「これ以上、私にまとわりつかないで」
「愛しているんだ、更紗」
「嘘つき。本当に愛してたなら、結婚していることを隠したりはしなかったでしょう?」
「愛しているから言えなかったんだ!」
縋るように更紗を抱く腕に力を込め、玲二は震える声でそう訴える。だが、そんなものは何一つ心に響かない。
思えば、付き合っていた頃からそうだった。
何か都合の悪いことが起こると、玲二はこうして物事から目を背けてきた。更紗が不安を訴えても「愛している」の言葉一つで済まそうとしたし、怒った素振りを見せればこうして甘え、縋ってくる。
玲二を愛していると信じていた時は、それが可愛いなどと思っていた。そしてとことん甘やかしてしまった。そんな自分に酔っていた。この人は、私が側にいなくてはいけないのだと。
更紗は玲二にとって都合のいい女だった。だがそれは、更紗も同じだったのだ。一人になるのが怖くて、彼のそういった部分から目を逸らし、愛しているのだと自分に言い聞かせていた。更紗だって、玲二を利用していたようなものだ。
「そうじゃない」
「更紗……」
更紗は玲二を振り仰ぎ、静かに微笑む。
「玲二さんは、私を愛してなんていなかった」
「違う!」
「そして、私も玲二さんを愛してはいなかった」
「更紗っ……」
「私たち、お互いに寂しさを埋めようとしてただけ。お互いを都合よく利用していただけなの。それが……わかったの」
「更紗! 違う! 僕たちはあんなに愛し合っていただろう?」
「……離して」
玲二はますますその腕に力を込める。更紗は痛みに顔を顰めた。玲二の腕が身体に食い込んでくる。
「はな……し……てっ」
「一度は家庭に戻ろうとした僕を許してくれ! 戻ってから気付いた。本当に愛していたのは更紗だけなんだって!」
「……っ」
骨が軋むほどの力を加えられ、息が苦しくなる。
巨大な蜘蛛と戦う朔の姿を探すが、目が霞んでくる。意識がだんだんと混濁してくる。
もうダメだ──そう思った時。
激しい風が巻き起こった。
玲二と更紗はその風に煽られ、引き離される。そしてそのまま遠くへ吹き飛ばされてしまった。
「きゃああああっ!」
竜巻のような渦に巻き込まれ、自分がどこをどう向いているのかもわからない。目を閉じていても、三半規管が狂って頭がフラフラする。
しかしその時、誰かに抱き留められた。一瞬玲二かと思って怯えたが、すぐに違うとわかる。
触れる手の温もり、優しさ、匂い、更紗が今、もっとも大切だと思う人のものだ。更紗はゆっくりと目を開ける。
「……朔さん」
「大丈夫か、更紗」
朔が更紗を抱え、心配そうに顔を覗き込んでいた。
更紗は心底ホッとして、朔の胸に顔を埋める。
「はい。朔さんこそ……」
「俺は大丈夫だ」
顔を上げて周りに目を遣ると、ここは竜巻の中心のようだった。風もほとんどなく穏やかで、外側の世界が嘘のようだ。ここから外側の様子が見えた。家の中から窓の外を眺めているような感覚だ。
玲二の姿は見えなかった。そして朔と対峙していた巨大な蜘蛛は、バラバラになっては元に戻るということを繰り返していた。
「これはどういう……」
「あれは牛鬼という妖怪だ。結界が崩れたことによって、こっちに来ようとしている」
「えっ……」
更紗は目を凝らして牛鬼を見つめる。形は牛ではないが、よくよく見ると、頭部の辺りにも背中と同じような大きな棘が生えていた。それは鬼の角のように見える。
だが、強風によってすぐにその形は崩れ去る。それでも牛鬼は、しぶとく自らの姿を形作っていく。
「これじゃ、キリがない」
「あぁ。もうしばらくはツキに頑張ってもらうしかない」
「え……? これは、ツキの力なんですか?」
「ツキが本来の姿になった」
「……っ!」
ツキが本来の姿になる。それはつまり、陽と朔、二人が戦闘不能に陥った時だ。
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