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林檎の花言葉
「なんてこと、したんだ……。これでクビにでもなったら……」
「いっそ、クビになってしまえばいいんです」
そう言いながらゆったりとした足取りで近づき、先程まで梨々花が座っていたところに座る。
「貴方を養えるほどの収入はあるのですから。わたくし以外の女性に言い寄られても断れないのなら、無職になってしまえばいいんです」
困った人だと言わんばかりにため息をつく。
「けど……」
「けど? 貴方は、分かっていませんね」
うんざりしたように言うと、沙羅は景吾の足の間に自分の膝を置き、彼の前に膝立ちをした。両手はベンチの背もたれに押し付け、その細い身体と不釣り合いな力で握った。
「いっ……!」
「痛いですか?」
ふふっ
軽やかな笑い声が、耳をくすぐった。
「ねぇ、林檎の花言葉を知っていますか?」
恐怖で喉が詰まり、声が出ない。景吾は言えない代わりに、首を横に振る。
「優先、ですよ。わたくしは、何よりも貴方を優先しているんです。貴方も、わたくしを優先してくださいませんと。でないと、不公平でしょう?」
答えられずにいると、唇を塞がれた。ぬるりと舌が入り、口の中を貪られる。
「んんっ!? ふ、んぅ……」
文字通り甘いキスに、身体の力が抜けていくにつれ、腕の拘束も緩くなっていく。
「景吾さん。貴方は、わたくしだけのものでしょう? 他の女性に現を抜かされると、うっかり棺に閉じ込めてしまうかもしれません」
ハッタリではない、脅迫だ。それも、息苦しいほどの狂った愛が込められた脅迫。
彼女はエンバーマー。死体に生前のような美しさを蘇らせる仕事をしている。死体を熟知した彼女なら、傷が付かない殺し方で景吾を殺し、エンバーミングで美しい死体に変えることなど、造作もないだろう。
「大丈夫、俺は沙羅だけだから」
「当然でしょう? わたくしも、景吾さんだけなんですから。さぁ、帰りましょう?」
沙羅は立ち上がり、手を差し伸べる。その手を掴んで立つと、彼女のほうが少し背が高いことに気づく。景吾の身長はそこまで低くないが、170cm近くある沙羅がヒールを履くと、彼女の方が僅かに高くなってしまう。
「ヒール、履いてるんだ」
「えぇ、なんとなく」
ふたりはマンションへ足を向ける。スマホを始めとした荷物が病院にあるが、気にしている余裕はない。
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