序章

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序章

 異様な女だと、一目見て九平(きゅうへい)は思った。  それは女の身の上でありながら、総髪に髪を結い、筒袖・野袴という男装をしているからではない。こちらを見据える眼が違うのだ。  夜。晩夏の月に照らされた女の眼は、餓えた猟犬が持つそれである。〔夜狐(よぎつね)の九平〕と渾名され、関八州にその名を轟かせた盗賊である自分でも、その眼光には粟が立つような恐ろしさを覚える。  上州利根郡(じょうしゅうとねぐん)にある、高日向村(たかひゅうがむら)。九平は夜狐一味を率いて、高日向村と近郊八村を支配する割元(わりもと)山井治左衛門(やまい じざえもん)の屋敷に押し込んだが、そこには七人の用心棒が待ち構えていたのだ。  慌てて逃げろと命じたが、時すでに遅し。たちまち一味は広い庭で取り囲まれ、そして今、両の足で立っているのは、九平ひとりだった。 「下手を打っちまったな。まさか、こんな凄腕を雇っているとは思わなかったぜ」  九平は自虐気味に吐き捨てた。渡世人の子として生まれ、すぐに先代のもとに修行にだされた。そこで二十余年。盗賊修行を重ねて跡目を継ぎ、それなりに名前も通るようになった矢先だった。  手抜かりは無かった。この押し込みに、一年以上もじっくりと手間暇を掛けたのだ。それだけの価値が、この屋敷にはあった。それが、このザマである。 「お前さん、女の身で大したもんだ」  すると、女が陽に焼けた顔に僅かな笑みを浮かべた。  歳は二十代半ばだろうか。もっと若い気もするが、本当の事はわからない。目鼻立ちがしっかりとした美形だが、身体は鍛え上げられている。その上に陽に焼けているのだ。女らしさは皆無だった。  この女が、用心棒たちの指図役(さしずやく)らしい。全体を指揮しているが、一味相手に戦ったのは、この女一人だったから驚きである。  女は二尺ほどもある六角鉄短棒(なえし)を両手に持ち、十人もいた手下たちの腕や膝を、あっという間に打ち砕いた。そして女は見ていただけの六人に捕縛の命を出し、手下たちは次々に縄を打たれてしまった。 「嬢ちゃん、こちらの動きをよく察していたな」 「ずっと内偵していたからね。いつどこを襲うか、昨日どんな女を抱いたかさえお見通しさ」  内通者か。ふとそんな事が頭を過ぎったか、今更どうしようもない話である。 「お前さん、何者(なにもん)だ? ただの用心棒じゃねぇだろ」  女は、一瞬だけ考える表情を見せて、すぐに口を開いた。 「いいわ、どうせあんたは獄門送り。冥途の土産に教えてあげる」  すると、女は二本の短棒(なえし)の石突を合わせた。ガチャリという音。何か機巧(からくり)があるのか、二本の短棒(なえし)が四尺ほどの鉄杖に変わった。  六角鉄杖を、右手で回す。それだけで、鉄杖の獰猛で身の毛もよだつ唸り声が、夜の庭園に響いた。  そして小脇に構えると、女は口を開いた。 「あたしらは、逸撰隊(いっせんたい)。この名を聞いた事ぐらいあるだろ?」  九平が頷いた。  数年前、老中であった松平武元と田沼意次の発案により設立された、〔身分・性別〕を問わない、完全実力主義の治安維持部隊。町奉行にも火付け盗賊改め方にもない、機動性と攻撃力を有した秘密組織で、大胆かつ暴力的な活動と、目的達成の為には人殺しも辞さないという姿勢から、〔人斬り隊〕とも呼ばれている。 「へへ、まさか逸撰隊が出張ってくるとはね。すると、あんたが噂の毘藍婆(びらんば)か」  噂では聞いていた。逸撰隊を率いる、女の存在を。そして、その女は鉄杖を持って関八州で暴れまわり、毘藍婆と呼ばれて恐れられているという。 「まぁ、この夜狐の九平の最後の相手にゃ不足はねぇぜ」  腰から匕首(ドス)を抜き払う。匕首(こいつ)の扱いには、多少の自信がある。毘藍婆に敵わずとも、一矢報いる事ぐらいは出来るはずだ。 「それは光栄だわ。でも、あたしは毘藍婆という渾名(あだな)が好きじゃないの。婆さんみたいじゃない」 「違いねぇな。なら名前を聞かせてくれよ」  女が鉄杖を肩に担ぐと、九平を見据えて不敵に笑んだ。  どこまでも、異様な女だ。禽獣の持つ、獲物を狩る眼。すると、喰らわれるのはこの俺か。 「一番組頭の明楽紅子(あけら べにこ)。どこの骨を砕いて欲しいか言ってごらん?」
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