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待合
ピンヒールが目に入った。
それで、啓子は自分がうつむいて歩いていたのだと気が付いた。
視線をあげると、モデルのように喪服を着こなした女性の後姿があった。膝上丈の、タイトなワンピースタイプの喪服で、短めのジャケットから覗くウエストはきちんとくびれていた。きちんと、としか言いようがないと啓子は思う。火葬場の待合室の並ぶ廊下、吹き抜けの階段の明るさがよそよそしい。そのつやつやと光る手すりを睨みながら啓子は階段を昇ってこのフロアに至った。
この人があのぴかぴかの階段を昇った時、きっと結婚式の下見にでも来たような足どりだったんじゃないかしら、と思う。だって、あんなにきれいに明るい髪をまとめて、全身完璧すぎる装いでいるのだもの、と。
一方自分は、と啓子はまた視線を下げた。
手元には夫の白木の位牌が抱かれている。うやうやしく、丁重に扱うことを求められているそれは、ただの板きれであり、夫だった人の名前とは似ても似つかぬ漢字の羅列が書かれているだけだ。しかしそんなことを考えるのも、自分らしくないと感じている。以前の啓子なら、そんなことを考えるのも信じられない、カワイソウな人だと思ったことだろう。啓子はそういう人間だ。
たしなみ、として一応所持していた喪服は、歳をとって肉の落ちてしまった啓子には大きすぎた。昨年あたりから存在感をあらわにしてきた白髪を気にして、自分で染めてみた髪の毛。そのオレンジがかって乾燥した毛先が、好き勝手な方向を向いて黒いジャケットの肩にかかっていた。
前を行く女性は尾原家と書かれた待合室に入っていった。その先に、笹川家と案内板が立っていた。啓子の目指す部屋はそこになる。
尾原家と笹川家の待合室は隣同士で、尾原家が向かって手前だ。待合室に女性が入っていく瞬間、啓子は女性を追い越しがてら横目で顔を見た。完璧すぎて場にそぐわない喪服を着こなす女性とは、どのような人なのか。失礼と知りつつもつい興味を抱いてしまうのだ。
黒いレースの、シルク地だろうか、華やかなマスクの横顔が見える。啓子はそんなマスクがどこで手に入るのかも知らないし、知っていたとしてつけようという気持ちにもならなかったろう。マスクに隠されていない目元は、想像よりも目の下はたるみ、皺がめだっていた。笑い皺が深く入っていて、丸い大きな瞳と相まって普段はきっと愛嬌のある顔立ちなのだろうと想像させる。ただ今は窪んだまぶたの影とそれを縁取る長いまつげの美しいカールのちぐはぐさが生々しい悲しみを思わせた。彼女が唐突にこの状況へ引きずり込まれたのだということを伝えているようで。
先に行った母と、娘の希穂が、振り返って不思議そうに啓子を見つめている。歩を緩めるだけのつもりがつい足を止めてしまっていたようだ。笹川の家の義母と義父もまだ健在で、部屋に入っていく背中が見える。今の自分の立場を思い出した啓子は、尾原の部屋の前を急ぎ足で通り過ぎようとした。
男の声で「裁判」という言葉が聞こえて、思わずもう一度尾原家の待合室を振り向く。
「だってダイキくんの方が飛び出してきたなんて、誠意のない」
「大体ああいう運送業者なんていうのはろくなもんじゃないんだ。会社だってな、小さな会社だっていうじゃないか」
怒りをあらわにする女の声と、なだめるように話かけながらも抑えようもない憤りを徐々ににじませる男の声。「ダイキくん」と呼ばれたのは故人だろうか。呼んだのはあの美しい喪服姿の女性だろうか。あの女性の姿と声が繋がる気がして、啓子は心臓をぎゅっと掴まれるようだった。話しぶりからして、女性とダイキくんと男性の関係は、家族だろう。ダイキくんは、きっと息子だ。啓子は手の中の軽い白木の位牌を握り直した。見知らぬ少年が位牌になっていることを想像して、どうしようもなく動けなくなった。
「もう、ママドア開けっ放し。恥ずかしいから喧嘩しないで」
「喧嘩じゃないわ、大人の難しい話よ」
「お金のね」
「命のよ」
最後の言葉は一際高く廊下に響いた。耐えられないというように、部屋の中から長い髪を二つに結んでおろした少女が飛び出してくる。沿線で人気の、制服が可愛くて有名な私立の女子校の制服姿だ。それはよく似合っていたけれど、あの華美な喪服姿の女性と親子で並ぶ姿はやはりどこか葬儀に不似合いだったことだろう。
乱暴に力を入れながらもきちんとドアを引いて閉める少女は、きっとそう育てられてきたのだろう。そう思いながら見つめていた啓子は顔を上げた少女と一瞬目があってしまい、逃げるように笹川家の部屋へと入ったのだった。
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