大空の下で

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大空の下で

今どこにいますか? 史恵は繋がらないスマホを握りしめて途方に暮れた。先週までは連絡をくれていたのに、息子の健一からのメールが途絶えた。最後のメールで、これから”圏外”になるだろうと言っていたが、それにしても長すぎる。今頃はすでにスマホの入るところまで来ているはずなのに。 武井健一は東京の実家を離れ、地方都市の大学に通う2年生、探検同好会に所属している。この夏は、マレーシアのカリマンタン島奥地を流れる川の源流を探る旅に参加した。高校時代、これといって夢中になれるものがなく、帰宅部として3年間を過ごした健一は、大学入学を機に思いっきり青春を楽しもうと決意、入学式当日にチラシを手にドアを開いたのが、”探検同好会”だった。 その日から健一の生活はがらりと一変した。キャンプの仕方から野外での食料調達、体力をつけるための走り込みといったトレーニング等々。辛いことも度々あったが、それでも続けてこれたのは、ひとえに頼もしくてやさしい上級生たちに恵まれていたから。そのお世話になった3年生の先輩たちとの最後の旅行である。健一にも自然と力が入った。     これまで、探検同好会は国内国外を問わず様々な探検をしてきた。人知れない洞穴に入ったりちょっとした砂漠の走破であったり。それはスリリングに富むもので、日常生活では味わえない興奮を味わうことができた。命にかかわるような危険も無きにしも非ずではあったが、常に万全を期し、外との連絡はとれるように配慮がなされていた。大学側がこの集まりを同好会にとどめ、クラブに昇格させてくれないのは、危険性がわずかにも残るという理由からだったが、それもこれまでの成果により、認可の可能性が出てきていた。今回の川の源流を探る旅は、何としても成功させなければならない。同好会メンバー一同、これまで以上の決意をもって臨んだ旅となった。 奥地に入って3日目。一行は道に迷ってしまった。もうそろそろジャングルの向こうに集落があるはずであったのに、行けども行けども密林が続く。一度開けたところを確認したが、人っ子一人いない。どうやら集落全体で移動したらしい。炊事で使われたのか、木の棒のようなものが落ちていた。そのうち、メンバーの中に身体をこわす者、怪我をする者が現れてその歩みは次第に遅くなり、ついには予定よりかなり手前でキャンプを張らなければ事態に陥った。首都クアラルンプールに戻るのはずっと後になる計算だ。 メンバーの保護者から大学に電話が入ったのは、それから数日後のことだった。息子との連絡が取れないのだが、大学には何か情報は来ていないかというもの。寝耳に水の大学関係者は慌てた。担当職員を探し出し詳細を求めるも、計画ではすでに通信圏内にいるはずなのに、連絡が取れないという事実が確認されただけ。学部長まで呼び出され、もしや遭難か!という事態に緊張が走った。とにかく現地の様子はどうなっているのかと問い合わせる。外国人の事件・事故の情報は入っていない。天気の大きな急変などはなく、政治的な混乱ももちろんない。大学側としては事を大きくしたくない。保護者達には、こちらが情報収集に努め逐一知りえたことは共有するようにするからと約束し、なにとぞ外部には漏らさないようにと念を押した。保護者の中には、取り乱す者もわずかにはいたが、ほとんどの親はまあ、もう少し待ちましょうということで、協力を承諾してくれた。 健一の母、史恵も大学に一任することに賛成した。もう少しだけ様子を見てみよう。これまでも大丈夫だったのだ。今回も絶対に大丈夫!家を離れ、大学に入ってからの健一は目を見張るようにたくましくなった。ここでただおろおろと心配をしてどうなる?史恵は探検同好会を、そして何より健一を信じることにした。 この時武井家は大きな出来事を抱えていた。やらなければならないことが山ほどある。あれもこれも、健一のことがひとまず様子見ということになったのなら、目の前の大事なことをしていかなければ。まさかこんな急にお父さんの転勤が決まるとは思ってもいなかった。引っ越しの手配やご近所へのあいさつなど諸々に加え、早急に連絡をする必要のある所が数か所。これで良かったかしら。作業リストを作ってチェックを入れていくのだが、そのチェックすら混乱してきた。お前はおっちょこちょいだから、なんてお父さんはいつも言うけれど、その原因を作るのははじめからお父さんなのに。ええ、完璧、これで全部! 史恵は声に出して言って、自分を納得させた。  川の源流を探すという今回の旅は、さまざまな困難に遭い計画を大幅に遅らせながらも、目的を達成させることができた。病人やけが人もあれからほどなく回復し、無事一緒に帰国できたことは、成功の証である。スケジュール通りにはいかなかっとはいえ、安全第一の無理をしない同好会のモットーが今回も生かされ、この点については大学側も評価してくれた。すぐにとはいかないまでも、近い将来クラブに昇格できるだろう。   空港での解散の後、健一は実家に帰るべく連絡を入れた。下宿先ではなく、懐かしい家族の下へまず帰って、自分の無事を知らせたかったのだ。実のところ、“プチ遭難”にあった後、連絡のつく地域まで来た時にメールを入れていた。いつもならすぐに“既読”がつき返信してくれる母から、何の音さたもない。まあこういうこともあるだろうと、日本に着いてから連絡し、少し驚かしてやろうなんて思った。サプライズは大きな方がいい。他のメンバーの親や親族が、空港まで迎えに来ているのを少し羨ましく横目で見てはいたのだが。電話で自分の元気な声を聞いたら、お母さんはきっと喜ぶだろう。もしかした涙を流すかもしれない。その時の様子を想像すると、にやにやが止まらなくなった。 感動の第一声を聞かせるべく電話を入れる。繋がらない。お父さんは仕事かもしれない。でもスマホの電話に出られないということがあるだろうか?お母さんには何回もかけているが全く。にやにやはどこかに吹き飛び、変な汗が出てきた。ひとまず冷静になろう。健一は広い空港から出ると、大きく息を吸った。ジャングルで道に迷った時よりも数倍の危機。家に何かがあったのだ。疲れた足を引きずりながら、健一は正月以来帰っていなかった東京の実家へと急いだ。車中でも、何度もメールをし電話を入れた。いっこうに繋がらない虚しさに叫びだしそうになったが、他の客の手間、何とかこらえた。 そして家についた。健一が生まれた時から住んでいる我が家だ。しかし、家にはカギがかけられていた。玄関には“武井”の表札もなくなっている。健一は後ずさりして周りをきょろきょろ見回した。お母さんがどこかの窓から顔を出すかもしれない。洗濯物を取り込むためにベランダに出てくるかもしれない。だが、それは幻想にすぎなかった。見上げると真っ青な空にソフトクリームのような雲が一つ二つ。なんとも言えない孤独感が健一の全身を覆った。人の気配が全くない家の前で、健一はつぶやいた。 「お母さん、お父さん、今どこにいますか?」
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