序章:紅と赤の日

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 艶やかな、水色がかった銀の髪。よくできた人形に命を吹き込んだかのような端正な顔。春の若草を思わせる翠の瞳は今、憂いに揺れている。 「――――――」  青年が慕ってやまない、誰よりも愛しい女性が、彼の傍らに膝をつき、薄い唇から彼の名を紡ぎ出す。こちらがどきりと心臓を大きく脈打たせているのを知ってか知らずか、彼女は、その腕に抱いていたものを、そっと差し出した。  産着に包まれた、彼女と同じ髪色を持つ、赤子を。 「――――を、この子を連れて逃げてください」  その言葉に、青年の心臓は先程とは違う意味で跳ね、褐色の瞳が限界まで見開かれる。 「――――様は」 「私は、ここに残ります」  翠眼に、凛とした決意が宿った。 「反逆者達が私を狙っているのは明らかです。私は女王として、この事態をみすみす招いた責任を取らねばなりません。ここに残り、彼らの目的を聞き届けねばなりません」 「駄目です!」  ようやっと力の入るようになった身体を起こして、すがりつくように、懇願するように、彼女の両肩を強くつかむ。 「どうか――――様もお逃げください! 貴女が失われたら、この国はどうなるのですか!?」 「貴方こそ、考えなさい」  ぴしゃりと水を打つように、冷静な言葉が青年の耳朶を打った。『争い無き世界を望む優女王』の二つ名が嘘のような鋭さを込めて、彼女は言うのだ。 「私が貴方と共にこの場から逃れれば、彼らは諦める事無く、地の果てまで私達を追ってくるでしょう。私一人が残る事でこの場が収まるのならば、貴方はこの子を連れて身を隠し、そして、再起をはかりなさい」  それは、願いでも、祈りでもなく、命令だった。そして彼女の命令に背く事は、青年にはかなわない事であった。  ばたばたと。新たな足音が近づいてくる。 「行きなさい!」  彼女が強引に、赤子をこちらの腕に押しつけてくる。母親の手を離れた途端、何かを感じ取ったのか、赤子がむずがり、火のついたように泣き出した。  きっとこれが、今生の別れになる。それを、頭では理解しつつも、心が認める事を拒んだ。 「迎えに、まいります」  立ち上がり、曇り無き翠の瞳を真正面から見つめる。この光に、惹かれたのだ。この輝きに、何度も救われたのだ。だから、今度は自分が彼女の心を支える番だ。大切に、大切に、言の葉を爪弾く。 「必ずお助けにあがります。ですから、必ず生き延びてください」  彼女が軽い驚きに目をみはった後、きっと唇を引き結んで、こくりと頷く。それが虚しい口約束である事は、もうお互いが認められる歳になっていた。  泣きわめく赤子を抱いたまま、踵を返す。振り返る事の無いまま駆け出す。手近な窓を剣で叩き割り、城外へと飛び出して、器用に屋根を伝いながら、青年は雨の中へと駆け出した。  冬の雨はやがて、雪に変わる。  逃げ切らねばならなかった。足跡が残ってしまう前に。
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