第1章:翠の瞳に決意が宿る(1)

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 春の始まりのトルヴェールから臨むアルネリオの山脈は、まだ根深い雪の冠を戴いている。  快晴でも肌寒さが残る空の下、少年少女のかけ声が、白樺の林の中を突き抜けた。 「クレテス、そっちだ!」  前だけを紫に染めた亜麻色の髪の少女が、群青の瞳を細めて叫ぶ。時折飛ぶ矢に追い立てられ、冬眠から早く目覚めた熊は、唸り声をあげ、張り出した枝をぼきぼき折りながら林を駆ける。  その頭上から、人影が降ってきた。目の覚めるような金髪を無造作にはねさせた少年が、深海を思わせる蒼の瞳で熊を見すえて、手にした剣を振り下ろした。刃は熊の肩を斬り裂き、獣の咆哮が響き渡る。  ぽたぽたと。血を流しながら、それでも熊は何とか命永らえようと木々の合間を駆けてゆく。 「――エステル!」  少年が声を張り上げた。 「はいっ」  凛とした応えが返る。それと同時、白の多い林の中に、銀が翻った。  声に違わぬ少女だった。歳の頃は十六、七。大陸では非常に珍しい、水色がかった銀髪を、高い位置でまとめている。普通にしていたら愛らしいだろう顔を緊張に引き締め、翠の両眼で向かってくる熊をしっかりと睨みつけて、一声と共に片手剣を突き出した。  肉を断つ音は、断末魔の叫びにかき消される。細腕からは想像もつかぬ重い一撃で急所を突かれた熊は、少女が剣を引き抜くと、一歩、二歩とよろめいたが、遂に力尽き、どうと地面に倒れ伏した。 「っしゃ!」亜麻色の髪の少女が、弓につがえていた矢を箙に戻しながら、快哉をあげて駆けてくる。「これで今夜は熊鍋だ」 「リタは二言目には食い物の話だよな」クレテスと呼ばれた少年が、剣を鞘に収めた後、肩をすくめながら熊の死体のもとへ歩み寄った。 「皆、怪我は無い?」  そこから少し離れた木の陰より、杖を握り締めたまま、ひょこりと顔を出す少女がいた。顔立ちはまだ幼さを残し、赤毛をふたつの三つ編みに結わいているのが、より年少感をかもし出す。 「私達は大丈夫です。ありがとう、ロッテ」  エステルと呼ばれた少女は、恐る恐る近づいてくる友人に笑顔を見せた。ロッテだけは、この場にいる者達の中で唯一、戦う力を持たない。トルヴェールで育った幼馴染達の間でも、彼女だけが魔力に恵まれた。しかし本人はそれを人を傷つける事に用いるのを良しとせず、回復魔法を修得して、皆の傷を癒す事で役に立つ道を選んだ。 「それにしても」  まだ赤黒い血を流す熊を見下ろしながら、エステルは翠の瞳を憂いに曇らせる。 「冬眠の時期は終わりではないのに、こうして出てくる獣がいるなんて」 「それだけ、帝国兵があっちこっちをうろついて、場を荒らしてるって事だろ」  クレテスが、つりがちな目を更につり上げて、忌々しそうに舌打ちした。
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