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(1-2)
「いつまでしらを切るつもりだ?」
帝国兵ウッドチャックの苛立ちは頂点に達していた。
ムスペルヘイム占領官エンゲルの下で、怒鳴られ、嫌味を言われ、手にしたグラスの中身をふっかけられ、あまつさえそのグラスで頭を殴られ、ワインではない液体を流して、数年。肉欲に溺れて民から搾取する事しか考えなくなった怠惰な上司の代わりに、部下を各地に放って情報を集め、遂に探し求める人物の所在をつかんだ。
だが、兵を率いてその村に押しかけた時、村人達は声を揃えて「そんな娘は知らない」と言い張ったのである。
村人を広場に集めて兵で囲み、剣を押しつけても、彼らは怯える様子も見せず、逆に背筋を張りこちらを見すえて、脅しに屈するつもりは無いという態度を見せつけた。それが、ウッドチャックの癪に障った。
隙を見て村の外へと駆けてゆく男がいたのを目ざとく見つけ、あたりをつけて部下四人に後を追わせたが、まだ帰る気配が無い。まったく、どいつもこいつも思い通りになりはしない。ウッドチャックはエンゲル配下になってから何十度目になるかわからない、大きな舌打ちをした。
「もういい」
彼は自ら抜剣し、抜き身の刃を手に部下の囲みをかき分けて村人の一人へ近づくと、無言で武器を振り下ろす。胸を斬り裂かれた青年は、痛みに顔をしかめながらその場に崩れ落ちた。
「村に火をかけろ。奪える物は全て奪え。一人も逃がさず殺せよ」
途端に若い男や女子供が悲鳴をあげる。こうしてきゃんきゃん騒ぐ連中を生かしておけば、自分の悪行の噂が広まってしまう。証拠を残さない為にも、後顧の憂いは全て断っておかねばなるまい。奪い尽くし、殺し尽くしてしまえば、不逞を暴き立てる者はいまい。
それに、目指す娘を匿っている村ならば、それなりの蓄えもあるだろう。もし見立てが外れていたとしても、全くの無駄足にはなるまい。部下達の半分が村に散り火をかけ、半分はじりじりと包囲の輪を狭める。いよいよ怯えの色を浮かべる村人達を見ながら、得られる物を脳内で勘定して、思わずほくそ笑んだ時。
鎧ずれの音がしたので振り向けば、逃げた男を追跡していた部下四人が戻ってくるところだった。村人の姿が見えないという事は、討ち取ったのか。それにしては、目指す者の姿も無い。
では、しくじったのか。
苛立ちは遂に、明確な怒りに転化した。もしこの時、ウッドチャックが冷静な思考力を残していたら、兵士達の一部の動きが、訓練された帝国兵にしては、鎧兜が重そうによろよろしている事を訝しんだに違いない。
「遅いわ、この無能どもが!」
だが、彼の沸騰した脳は、一度止まって考える、という事を放棄していた。唾を飛ばして怒鳴り散らし、先頭に立った兵の兜を、手にした剣で殴る。があん、と鈍い金属音がして、こちらの手にも振動が伝わった。
だが、部下は動揺しなかった。殴られた痛みは感じているだろうに、平然とした態で立っている。
「申し訳ございません。このような理由がありまして」
その口から発せられた声が、部下のものとは違って高い――どう判断しても女声――と思った瞬間、兵が腰の剣を抜いた。刃がきらめき、脇腹から肩にかけて熱が走ったかと思うと、身体に力が入らなくなって、ぐらり、視界が傾いだ。
「この村に横暴を働いた貴方を、私は許さない」
ひどく冷たい声色で言い放って、兵が兜を脱ぐ。ぶれる世界の中で翻る髪は、銀。翠の瞳には、底知れぬ憤りが宿っている。
がつん、と。ウッドチャックは地面と派手な口づけをして、歯が何本か飛んだ。斬り裂かれた傷口から、血液という命が流れ出してゆく。
「――貴方達の将は討ちました。武器を収めてください!」
自分の傍らに立つ、兵に扮していた少女が高らかに宣う。
「それでも戦うというのなら、私が相手になりましょう。貴方達の探し求めている、このエステルが!」
やはり。焼けつく痛みの中、目を見開く。
こいつがエステルだ。探し求めていた娘だ。
ウッドチャックはのろのろと手を伸ばす。今、傍らにある足首をつかんで引き倒せば、まだ自分には好機が残っている。怠慢なエンゲル将軍を凌いで、大幅な出世の道も開ける。
生死の狭間で、まともな思考も麻痺しかけていたウッドチャックの望みはしかし、背中に訪れた衝撃で断ち切られる事になる。
「エステルに、手を出すな」
少年の声が降ってくると同時に、突き立てられた刃が捻られる。その感覚を最期にして、ウッドチャックの意識は永遠に途切れた。
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