須田印刷所に来た女

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須田印刷所に来た女

 夏の焼けるような午後の日差しを背に受けながら、須田仁は錆びだらけの自転車をこいでいた。体中の穴からふきだした汗は、髪の毛の先から滴り落ち、ワイシャツの生地を背中にはりつけ、握りしめたハンドルを濡らしていた。  錆びたペダルは足に力をこめないと回らない。今年五十歳になった須田には真夏に自転車での営業は身に堪えたが、経費削減のためにも電車やバスでの移動はなるべく避けなければならなかった。  親から印刷所を引き継いで二十年、どうにか潰さずやってきたが、かつて二十人近くいた社員もいまでは三人になってしまった。定年を迎え辞めていったものもいたが、大半が待遇の悪さに嫌気がさして辞めていった。  須田としては充分とはいかないまでも可能なかぎりの給与を支払ったつもりである。しかし須田の気持ちを理解しつつも、気持ちだけでは生活していくことができず、社員は甘い蜜を求める蜂のように少しでも待遇のよい会社へと移っていったのであった。  見限って辞めていった社員のことを須田は恨むどころか感謝さえしていた。須田印刷所を支えてくれたのは彼らである。彼らから教わったことも多い。彼らが自主的に辞めていってくれなければ、資金繰りが苦しい印刷所はとうに潰れていただろう。辞めていった彼らにわずかでも退職金を支払えたことは須田にとっては喜びだった。いつの日か、辞めていった彼らがまた戻って来たくなるような印刷所にしたい、と思いながら日々働いていた。だが、須田が願うように業績は回復せず、むしろ日々悪化しているのが現実であった。  自転車をこぎ疲れた須田が汗だくになりながら印刷所に戻ってくると、須田印刷所のビルの前で女が一人たたずんでいた。二十代半ばくらいだろうか。楡色のロングスカートをはいていて、夏なのにどこか涼しそうな印象の女だった。  須田印刷所はビルといっても壁がところどころ剥げ落ちたひびだらけの三階建ての建物で、電気がついていなければ廃墟ビルと間違われそうな外観だった。一階からはたえず印刷機を動かすザッザッザッという音が聞こえてくる。かすかに鼻を刺激するインクの匂いもする。  ビルの横のすき間に自転車をたてると、須田は首に巻いたタオルで汗を拭きながら女に近づいていった。 「なにかご用ですか」  驚かせないように丁寧に声をかけたつもりであったが、女はしゃがれた声に怯えたように後ずさりをした。 「あの、チラシをみて、それで……」 「それじゃ、うちの求人をみて来てくれたんですか。それはうれしいな。さあ、どうぞ上にあがってください。事務所は二階ですから」  ビルの端には角度の急な階段があった。手すりにつかまりながら登っていくと、二階には来客用の四人掛け机があり、カウンターを挟んで奥には事務机が六机並べられている。ねずみ色の作業着を着た年配の女がひとり座っているだけで他に人はいなかった。ほとんどの机には印刷した見本であろうチラシや会報誌などが束になって置かれていた。 「仁さん、ずいぶんと遅かったですね。またどこかで油を売っていたんですか」  事務員の女は淡路光子といった。いつも机の端に沢庵を置いていて手が空けばボリボリとかじっている。 「将棋倶楽部の佐藤さんに会報誌の校正を持って行っていたんだよ」 「それなら、すぐに帰って来られるでしょう。何時間かかっているんですか」 「いや、仕事の話だけじゃ申し訳ないから、一手ご指南を受けていたわけで」 「そうでしょうよ。どうせそんなことだと思ったわ。誘われたから、断れなかっただけなんでしょう。ほんとお人よしなんだから」 「いや、すまん、すまん」  須田は頭をかくと気まずそうに笑った。 「それで、そちらのお嬢さんは。仁さんの愛人ですか」 「そんなわけないだろう。こちらは奇特にもうちの求人に応募してくださった方だ。お茶を出してください」  須田はむせながら女に頭をさげた。  求人チラシは三カ月ほど前から取引先に頼み込んで店先や店の中に掲示させてもらっていた。将棋倶楽部や老人会、公民館、小学校のPTA、チラシを作ったことのあるさまざまな町の個人商店に貼らせてもらっていたのだが、効果はゼロだった。有料の求人誌へ掲載するほどの余裕はなく、どうしようかと思っていたところに応募があったわけである。 「それでこれまで印刷物の制作の経験はありますか。パソコンでチラシのデザインをしたとか……」  椅子に腰かけると、須田はせっかちに尋ねた。 「はい。DTPの経験は十年間ほどあります。デザインはそれほど得意ではないのですが、オペレーションならどうにか。ソフトは、イラストレーターとフォトショップなら扱えますので」  女は遠慮がちに小さな声で答えた。  DTPとはデスクトップ・パブリッシングの略で、パソコンを使って原稿の作成やレイアウト、編集、版下作成など印刷するまでの一連の作業を行うことである。そのために使用するソフトにイラストレーターやフォトショップなどがあった。 「経験が十年もあるのなら申し分ありません。明日からでもよろしくお願いします」 「それじゃ、採用していただけるんですか」 「はい、もちろんですよ。僕しかソフトを扱える人がいなくって、これまで手が回らなくてほとんど外注に出していたんです。やはり印刷だけでなく中身も自分の会社で作らないと、なんだかお客さんにも申し訳ないような気がして」  須田はうれしそうに言った。受注から納品まで、すべて自分の会社でやりたいと思っていたが、人手不足の現状ではなかなかそういうわけにもいかなかった。女が制作担当として働いてくれたら、外注への依存もずいぶんと減らすことができそうだった。  光子は運んできたお茶をふたりの前に置くと、呆れたように須田の背中を叩いた。 「まだ名前すら聞いていないのに採用してもいいんですか。履歴書とか作品とか見て判断するものじゃないんですか」 「ああそうか、そうだったな」  須田は頭を掻くと「それじゃ」と言って女の前に手を出した。 「小川メイといいます。あのう、履歴書も作品もありません。申し訳ございません。ないとだめでしょうか」  メイは立ち上がると深々と頭をさげた。  須田と光子は顔を見合わせた。事務員の光子は首を横にふったが、須田は首を縦にふった。須田には光子が言いたいことはわかっていたが、不採用にするつもりはなかった。書類に書かれている情報よりも自分の目を信じていた。 「ああ、大丈夫、大丈夫。履歴書なんてついでのときにでも出してくれればいいから」  須田の言葉にメイの顔があかるく輝いた。 「ありがとうございます。がんばりますから」  メイは何度もなんども頭をさげると、安心したように胸をおさえて微笑んだ。  メイが笑うと左側の頬にえくぼができるのをみて、須田は心臓をつかまれたようだった。八年前に亡くなった妻の左頬にもえくぼがあった。似ている。須田は帰っていくメイの揺れる髪をみつめながら、なんともいえない気持ちになっていた。  須田仁が父親から印刷所を引き継いだのは今から二十年前、諒子と結婚をしたのも二十年前だった。諒子とは高校の時からの付き合いで十三年の交際を経て三十歳のときに結婚をした。須田は諒子以外の女を知らないし、ほかの女と付き合ったこともない。一筋といえば聞こえが良いが、不器用な性格で脇見もできなかったといえる。  諒子は体が弱かったせいもあってか子供に恵まれなかった。須田は本心では子供を望んでいたが、それを諒子のまえで口にすることはなく、そういう気持ちを隠しさえしていた。 「赤ちゃんを見せてあげられなくてごめんなさい」  体調がすぐれないとき、諒子はたびたび思い出したように謝った。  謝られるたびに須田は苦しんだ。そういう気持ちにさせていることが申し訳なかった。 「諒子さえいてくれたらそれで充分だよ。子供のいない夫婦なんていくらでもいるだろう。それでも皆幸せそうじゃないか」  そう言うと、慰めと思ったのか諒子は悲しそうに微笑むのだった。  須田にだまって病院で不妊治療を受けていたのを知っていたが、諒子はそれを知られたくなかったのだろう。なにも言わないから、須田もあえて気づかないふりをしていた。須田以上に子供をほしがっていたのは諒子のほうだったのではないか。  使うあてのない子供用の小さな手袋を編んでいる姿をみたとき、須田はたまらず怒鳴ってしまったことがあった。 「無意味なことをするなよ。そんなことをしたって無駄になるだけなんだから」  黙ったまま何も言い返さない諒子をまえに須田ははげしく後悔した。言ってしまった言葉は取り消すことができない。  これを機に夫婦の間で子供に関する話題がでることはなかった。意識的に互いに避けていた。しかし諒子は須田の目から隠すように子供のための編み物をつづけていた。服や靴下、帽子、手袋と日を重ねるごとに編み物は増えていった。須田は見て見ぬふりをつづけた。諒子のしたいようにさせてあげることで、すこしでも諒子のこころが満たされるのならそのくらい認めてあげようと考えるようになっていた。  月日がたち、諒子は不妊治療をやめたようだった。ようやく諦めてくれたことに須田はほっと胸を撫でおろしていたが、ある日、なんの前触れもなく諒子は写真を持ってきた。 「この子なんだけど、どうかな。かわいいと思うでしょう」  さし出された写真に写っていたのは、生後半年にも満たないような赤ん坊だった。  諦めたと思っていたのは須田だけだったようだ。顔にこそださなかったが、諒子は心の奥で子供への想いをずっと暖めていたのだろう。須田に写真をみせたときの諒子の顔は重荷が取れたようにさっぱりとしていた。 「友達に子供でも生まれたのかな」  違うとは感じていても自分を誤魔化すように答えずにはいられなかった。 「養子に引き取れないかな、この子を」  諒子はまさか拒否されるとは思っていないような明るい笑顔を向けてきた。 「急にそんなことを言われても、頭が混乱してうまくこたえられないよ」 「そう、そうよね。子供を産むことはできなかったけど、子供を育てることはできると思うの。たとえ血が繋がっていなくても私たちの子供として育てれば愛情だってわいてくるはず。ねえ、あなたもそう思うでしょう」  須田は施設から養子をもらってまで子供がほしいとは思っていなかった。養子をもらって子供を育てることは素晴らしいことだと頭では理解していたが、感情がそれに追いついていかなかった。冷たい人間なのかもしれないと悩んだが、どうしても諒子の想いを受入れる気持ちにはなれそうにはなかった。  傷つけることが怖くて返事を先延ばしにした。そのうち諦めてくれるかもしれないと、あわい期待をもっていた。  諒子は返事を聞きたそうな素振りをみせながらも、須田に催促することはなかった。ときどき子供の写真をながめては幸せそうに微笑んでいた。  そうやって曖昧な状態のままでいるうちに、諒子は病に倒れてしまった。胸に悪性の癌がみつかり乳房摘出を先延ばしにしているうちに悪化していき、やがて……。  八年前のことを今のことのように思いだす。もしあのとき養子を引き取っていたらと何度も考えてみた。妻の望みを叶えていたら病気になどならなかったかもしれない。それが非科学的な考えだとわかっていた。考えてみたところで当時の気持ちを変えることもできず、須田は冷たい泥のようなものが胃の腑にたまってしまったようで苦しかった。  須田は仕事を終えた後、印刷所の三階にある住まいに戻ると、いまでも真っ先に諒子の遺影に手を合わせていた。亡くなって八年が過ぎた後でもそれは変わることがなかった。  事務員の淡路光子は須田の父親が社長をつめていたころからの社員で須田の遠縁にあたった。裏表のない性格で、だれに媚びることもなくいつも暗くなりがちな事務所の中をひとりで明るくしていた。須田よりも十歳歳下だったが、化粧をしないせいか歳よりも老けて見え、態度も社長の須田よりも堂々として社長らしかった。須田印刷所のお母さんといった存在といってもよかった。  小学一年生になる男の子がいて、毎日のように学校帰りに事務所に顔を出しては、空いている机で学校の宿題をしたり、印刷所の前の空き地でボール投げをして遊んだりしていた。仕事の邪魔になることもあったが、須田は気にしなかった。印刷機の硬質な音が響くだけの事務所にいるよりも、すこしでも賑やかな子供の声のする事務所にいるほうが安らぐからだった。  採用した小川メイが帰ったあと、光子は椅子の向きをかえて須田をみると、わざとらしくため息をついた。 「素性のわからないような人を採用して大丈夫ですか。いくら制作の人がほしいからといって、あの人、訳ありの人かもしれませんよ」 「どういう意味だい。真面目でよさそうな人だったじゃないか」 「気づきませんでしたか。あの子、妊娠していますよ」 「妊娠だって、ほんとうかい」  さすがに子供を産んだ経験があると、その観察眼に感心したが妊娠のなにが問題なのか須田にはわからなかった。 「たぶん結婚はしていませんよ。それにこの辺の人じゃないでしょう。どこかの地方からきて間もないんじゃないですかね」 「最近じゃ、シングルマザーというのは普通のことだっていうじゃないか。べつに仕事さえ、きちんとしてくれたら既婚だろうが独身だろうが、どっちでもいいと思うよ。地元の人じゃなくてもかまわないし」 「やっかいごとが、舞い込んでこなければいいと思うんですけど。逃げてこの町に来たのかもしれませんよ」 「淡路さんは心配性だね。むしろ何か訳がある人なら僕らが助けてやらなくてはならないんじゃないかな。なにも知らないうちから犯罪者みたいに言うのは、どうかと思うよ」 「社長があまりにお人好しだから、あたしは心配なんですよ」  光子は不服そうに唇をとがらせてた。  年期の入ったクーラーがぶるぶる震えながら事務所を冷やしていた。そろそろ買い換えた方がよいのだが、買い換えるほどの余裕はなかった。せめてこの夏を乗り越えてくれたら来年は買い換えようと須田は考えていた。蛍光灯もそろそろ取り替えなければならない。壁に空いた穴も修理したほうがよいだろう。机の引出しも開けづらくなっている。床も汚れている。  明日からくる小川メイのために須田は事務所の掃除をはじめた。「掃除くらいあたしがしますよ」という光子の申し出を断って、須田は自らきれいにし始めた。床を箒で掃いた後はモップで拭いた。机の上の荷物を片付けて、引出しの奥から余計な物を取りだし、絞った雑巾できれいに拭いていった。昔使っていた制作用のパソコンを棚の奥から取りだしてくると、須田のパソコンと共有できるように設定して、すぐに仕事が始められるように準備していった。このパソコンは諒子が使っていたものだった。諒子はパソコンもデザインも得意で、ここで印刷物の制作をよく手伝っていた。  電源の入っていないモニターをながめていると諒子の顔が思い浮かんでくる。目頭が熱くなってくる。 「小川さんて、奥さんに似ていると思いませんでしたか」  光子は電卓をたたきながら思い出したように聞いてきた。 「似てないよ。あんなに若くないし」 「若い頃はたぶんあんな感じだったんじゃないかしら」  返事に困っている須田の様子をまるで気にしないように光子は話しつづけた。 「でも、奥さんは妊娠しなかったからね。そういうところは真逆ですよね」  まるで悪意のないことはわかっていた。光子は思ったことをそのまま言っているだけなのだ。言われた相手がどう思うのかなんて、後で考えるようなタイプなのだ。 「諒子と小川さんは似ていないよ」  須田は力なく繰り返すだけだった。パソコンのモニターの中で諒子と小川メイの顔が重なってみえてくるのを必死に否定していた。似ていない。似ていない。いつの間にか口の奥でなんども繰り返していた。  階段を駆けのぼってくる足音が聞えてきた。なにか言いたそうにしていた光子から逃れるのにちょうど良いタイミングだった。元気のよい足音は姿をみなくても誰なのかすぐにわかった。 「母ちゃん、はらへった」  そう言いながら飛び込んできたのは、光子の子供、陽平だった。  事務所に入ってきた陽平は慣れたもので、ランドセルを床に放り投げると、勝手に冷蔵庫をあけて饅頭を頬張った。 「ここに来たのなら宿題していきないさいよ」  光子が叱るように言うと、陽平は「はあい」と返事をしたが、机に向かうことなくまた階段を駆けおりていった。 「大和兄ちゃんとキャッチボールしたあとにするから」  声だけが遠くになりながら聞えてきた。 「ほんと、しょうがない子だよ」  光子は目を細めながらどこか嬉しそうに言った。  須田はそんな光子の母親としての眼差しを見つめながら、浮かんでは消える妻に似たメイの顔を拭きとるように机を拭き続けていた。  光子の子供に大和兄ちゃんと呼ばれたのは、七年前から須田印刷所に勤めはじめた今年二十五歳になる大和俊也のことであった。主に出来上がった印刷物の仕上げや配送をしていたが、手が空いている時は印刷工で今年七十五歳になる最年長者の金澤栄治の手伝いをしていた。大和は七年前の入社とはいえ、新しく入ってくる小川メイをのぞけば一番の新人で、頼まれやすい性格のためか印刷所のなかでは何でも屋のような存在になっていた。  須田は光子から無遠慮に亡くなった妻のことを話されるのを避けるために、子供を気にかけるふりをして階段を降りていった。  印刷所の前は道を挟んで空地になっている。秋にはマンションを建てるための工事が始める予定になっていたが、いまはまだ立ち入り禁止の立札さえ立てられていない草の生えたただの空き地だった。  外に出ると、大和と陽平は空地でキャッチボールをはじめていた。 「おお、いい球なげるな」  大和は仕事中ということも気にせずグローブをはめて作業着姿でボールを投げている。須田の姿をみても悪びれるところがない。 「ぼくね、しょうらいは野球選手になるんだ」  陽平は学校帰りに印刷所に来ては大和とばかり遊んでいる。「学校になかなか馴染めないみたいなのよね」と、光子がしみじみと言っていたことがある。まだ陽平には放課後にキャッチボールをするような友達はいないみたいだった。  いっときキャッチボールをすると、大和は陽平のそばまで駆けよっていった。 「さあ、お母さんのところで宿題でもしてきな。俺はちょっと仁さんに話があるから」  そう言って陽平の尻をグローブでたたいた。陽平はまだキャッチボールをしたい様子だったが、ぐずることもなくすぐに諦めて事務所へと戻っていった。 「また遊ぼうね」  もしあのとき諒子の望むように養子を引き取っていたら、この子とそう変わらない歳になっていただろうと、須田は手をふって階段をのぼっていく陽平の背中を見つめながら思っていた。  大和は陽平の姿が見えなくなるのを確かめると、脇の下にグローブを挟んで須田に近づいてきた。  階段のしたに立つ須田の前まで来ると、大和は急に愛想笑いを浮かべた。 「仁さん、あのう、また給与の前借りをお願いしたいのですが」 「またか、先月も前借りしたじゃなか。そりゃ満足のいく給与は払っていないかもしれないが、そう毎月毎月前借りっていうのもなんだな」 「やっぱり駄目ですよね」 「駄目ってわけでもないが、今度はどんな理由で前借りしたいんだ。たしか先月は電話代が払えないと言っていたな」 「結婚をしたい子がいまして。指輪を買ってあげたいなって思って」 「いつの間にそんな相手をみつけたんだ」 「よく行くメイド喫茶の子なんですが、リカちゃんっていうんです」 「水商売の子か。客としていくうちに仲良くなったというありがちなパターンなのか」  へへっ、と笑いながら大和は頭をかいた。  簡単に給与の前貸しができるほど資金が豊かなわけではない。むしろ自転車操業といってもいいくらいだ。顧客からの入金日や銀行への返済日を計算しながら、なんとかやりくりをしていた。給与の遅延がないことだけが救いだった。 「リカちゃんを幸せにしてやりたいんだ。俺となら将来をともに歩んでいけるって思われたいんだよ。だから指輪くらい買えるってところをみせてやりたいんだ」 「わかった。指輪を買ってあげるといい。淡路さんに言って給与を明日にでも振り込んでもらうようにするから」  須田は気前よく言ったが、内心では冷や冷やしていた。金に余裕がないということもあったが、光子に言っても渋い顔をされることがわかっていたからだ。 「甘やかしてばかりいると社員になめられるだけですよ。ほんと仁さんは経営者には向かないわね」  きっとこう言われてしまうだろう。言われなくてもわかっている。わかっていても社員の頼みを断ることができなかった。  頭をさげた大和は鼻の頭を指でかきながら一階にある印刷工場の引き戸を開けて中に入っていった。戸が開けられると、印刷機の動く音とインクのすっぱい臭いが外まで溢れてきた。金澤が真剣な顔つきで印刷機をみている。関係のない人からみればやかましいし臭いも嫌になるかもしれない。だが須田にとっては印刷機の動く音もインクの臭いもほっと気持ちが落ち着いてくるものだった。もし印刷機の音がやみ、インクの臭いがしなくなったときは印刷所が終わるときだと思っていた。印刷機の動く音に安らぎを覚えている間は、まだやっていけると信じることができた。須田は、朝の空気を吸い込むように深呼吸した。  須田印刷所の右隣には自動車の整備工場があり、三人いる整備士のかたとも顔なじみで顔を合わせると立ち話をしたりすることもよくあった。左隣には倉庫があったが、その倉庫に何がしまわれているのかわからなかった。いつもシャッターが閉まっていて人の出入りもなかったので中を覗くこともできなかった。道を挟んで向かいの空き地の右横にはレンガ造りの洒落た喫茶店(たそがれ)があり、左横にはコインパーキングと個人で営んでいる電気屋があった。  喫茶店(たそがれ)の亭主とは父親が生きていた頃からの顔なじみで、諒子が亡くなってからは毎日のように昼食と夕食を食べにいっていた。安いうえに味もよくて、弁当を作ってくれるもののいない須田には助かる存在だった。電気屋の亭主とも古くからの顔なじみだったが、たまにたそがれで顔を合わせる程度だったので世間話もほとんどしたことがなかった。  ほかにも須田印刷所の近所には稲荷神社、児童遊園、シルバー人材センター、保険代理店、クリーニング屋、弁当屋、不動産屋、公民館などがあったが、この地域にはマンションが多く個人の住宅はあまり建っていなかった。マンションが多い割には人通りが少なく、日中でも静かだった。きっと単身者が多いせいだろうが、この町は都会の真ん中にあるわりに田舎の雰囲気が濃く残っていた。近くには古書店や本屋も多くあるせいか、道行く人もどこか本好きな雰囲気の落ち着いた人が多いようだった。  小川メイはこの町にすぐに馴染んだようだった。初日から、印刷所に通う途中で近所の人たちと顔を合わせると、気さくに挨拶をしていたようだ。人見知りをしない性格のようで近所の人との距離をすぐに縮めていった。須田がわざわざ紹介しなくても、メイが須田印刷所に勤め始めたことは、すぐに近所の誰もが知るようになっていた。  印刷所でも須田だけでなく、光子や大和や金澤ともすぐに打ち解けていき、光子の子供の陽平に勉強を教えたりすることもあった。メイはあっという間に印刷所の一員になってしまい、まるで何十年も前から勤めているような錯覚をしてしまうほど馴染んでいった。  仕事ぶりも真面目でまったく問題がなく、須田が思っていた以上に制作スキルも高く、十年の経験があると言っていたことは嘘ではなかったようだ。客先との電話での打ち合わせもこなすことができ、気取らず的確に話すので客からの評判もよかった。  メイが勤めだして三週間ほどたったある日の午後、須田は相談したいことがあると言われた。ちょうど昼休みの時間帯だったので、いつもいく馴染の喫茶店(たそがれ)にメイを誘った。  メイは普段の昼休みはコンビニで買ったお握りやサンドイッチを食べていたが、この日は持ってきている様子もなかったところをみれば、最初から昼休みの時間に須田と話をするつもりだったようだ。 「ここのお勧めはナポリタンだから」  須田が奥の窓側の席に座ると同時に言うと、メイは小さく笑って頷いた。  ここのマスターは物静かな老人で必要なこと以外は話しかけてこなかった。霞ヶ関の役所を退官してから店を開いたそうだが、詳しいことは須田も知らなかった。独身なのか既婚なのかもわからない。何年通っても初めのころと対応は変わらない。常連だからと贔屓することもなく、特別なサービスをすることもなく、なれなれしくしてくることもない。冷たいと言う人もいたが、そういったところが須田は気にいっていた。マスターは、ただいつも穏やかな笑みを浮かべてカウンターの奥で仕事をしていた。  マスターが水を運んできて、ナポリタンを運んできてもメイは相談事を話そうとはなしなかった。きっと話しづらいことなのだろうと思って須田は待っていたが、いつまで立ってもメイは問題なく進んでいる仕事の話ばかりに応じて肝心の話をしようとはしなかった。  ナポリタンを食べ終わって、追加注文した珈琲が運ばれてきて、ようやくメイは話はじめた。 「保証人になっていただけませんでしょうか。アパートをこの近くで借りたいと思っているのですけど、その保証人になっていただけるかたが仁さん以外に思い浮かばなくて」  ようやく言いたいことを口に出せたことにほっとしているようだった。メイは氷の入った水を飲むと深く一息はいた。 「すると今はどこに住んでいるの。友達の家とかに居候しているとか」 「いいえ、ホテル住まいなんです。いつまでもホテル暮らしをしていると、その、お金がたいへんで。だからこの近くに安いアパートでも借りて暮らせたらと思って。仕事の方もどうにかやっていけそうですので」 「なんでまたホテルでなんか。どこか遠くの町からここにやって来たの。まあ、それなりの事情があるからホテルにいるんだろうけど」 「はい、すみません」  頭をさげるが、メイは事情を話そうとはしなかった。言いたくないというより、言う勇気がないといった感じだった。  須田は無理に聞き出そうとはしなかった。妊娠していることは光子から聞いて知っていたが、そのことをメイに聞いたことはなかった。気づかないふりをしていた。いつかは心を開いて話してくれるだろう。力になってあげたい。保証人にだってなってあげたい。それでメイを助けることができるのなら、須田は喜んで応じたかった。  お金がたいへんで、とメイは確かに言った。アパートを借りれば敷金や礼金なども必要になってくるし、月々の家賃だって負担になってくるだろう。 「保証人に……」と言って、須田は黙った。ある想いが頭のなかを駆け巡っていった。 「保証人になるのもいいんだけど、よかったら一緒に暮らさないか。あ、一緒にといっても部屋は別々だから、鍵もかけられるし、不安になるようなことはしないし。知っての通り僕は印刷所の三階で暮らしているんだけど、妻が亡くなってからずっと一人暮らしなもんで、一人だと部屋が広くてたまらないんだ。その、余った部屋を有効活用してもらえればと思ってね。ほら、家を借りるといっても条件の合う家があるともかぎらないし、すぐ入れるともかぎらないし、それに僕のところなら家賃もいらないから、いいんじゃないかと思ってね」  一気に話す須田の言葉を黙ってメイは聞いていた。  言ってしまった後で須田は顔を赤くした。とんでもないことを言ってしまったと思った。一緒に暮らそうだなんて、非常識というだけでなくセクシャルハラスメントで訴えられても仕方ない。下心なんてまったくなかったが、そう受け止められたとしても言い返せない。  取り消そう。きっと困らせてしまったに違いない。恐る恐るメイの顔をのぞくと、メイは涙をためてうつむいていた。泣かせるほどに嫌な想いをさせてしまったのか。おろおろと須田はしながら「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」と言って手を震わせた。 「いえ、ありがとうございます。わたしなんかのためにそんなことまで考えていただけるなんて、なんだか嬉しくって」  メイは嫌がるどころか喜んでいたのだった。うれし涙といっていいのだろうか。それほどまでに住まいをみつけるということに悩んでいたのだろう。家賃がかからない。それは須田が思っていた以上にメイにとっては切実な問題にちがいなかった。  さっそくこの日からメイは須田印刷所の三階にある須田の住まいに越してきた。三階の住まいの間取りは六畳の襖で仕切られただけの和室が二部屋に独立した八畳分の広さの洋室が一部屋、そしてダイニングキッチンのいわゆる三DKであった。完全に独立している部屋は洋室だけなので、そこをメイの部屋にあてた。メイが入る前は須田の寝室として利用していたのでベッドもあれば鏡台もある。クローゼットもついていたので、偶然ではあるが女性の部屋としては使い勝手がよかった。  須田がひとりで寝室として使う前はとくになにも置いていない空っぽの部屋だった。空っぽなのは妻の諒子が生きていたころ、ここを子供が生まれたら子供部屋にしようと空けておいたからだ。  子供は生まれなかった。妻もいなくなった。須田だけが残った。わざわざベッドを買って、ここを寝室として使っていたのはなぜだろう。諒子が夢みた子供部屋への想いに押し潰されないようにしたかったからか。叶えられなかった未来をほかのもので埋めたかったからだろうか。須田にははっきりとした理由がわかっていなかった。ただこの部屋を空っぽのままにしておくことが出来なかったのだ。  メイが引っ越してきて須田の生活は大きく変わった。最初に食生活が変わった。メイが同じ家に住んだからといってこれまでと大きく変わることはないだろうと思っていたのだが、考えてみれば部屋は別々だとしてもキッチンも風呂もトイレも共同使用である。メイが節約のために自炊するのはあたりまえで、料理を作るのなら須田の分も作るのは自然な成り行きだった。家での食事といえばコンビニで買ったインスタントラーメンや弁当だったのが、きちんと栄養を考えて作られた料理を食べるようになっていた。もちろん食費は須田が出していた。料理を作ってくれるお礼と思えば当たり前のことだと考えていたからだが、それはメイに対して妻に似た感情を持たないための自衛でもあった。 「お金を溜めて一日も早く独立するようにします。そうしないと皆さんがいろいろなことを言って、仁さんにご迷惑をおかけしそうで」  メイがこんなことを言い出したのは、印刷所の社員だけでなく、近所の顔なじみにも同じ家に暮らし始めたことが広まったからだった。皆が考えているような関係ではないと説明はしたが、それを誰も真面目に受け取ることはなく照れ隠しで言っていると思っていたようだった。  幸い一緒に暮らし始めたことを批判的にとらえる人はいなかった。須田にしてもメイにしても信頼されていたせいもあるだろう。排他的ではなく、どちらかといえば社交性もあり飾らずだれとでも仲良くしてきたからかもしれない。須田がこれまで知らず知らずに築いてきた周りとの誠実な交流が若い女性と暮らようになったときに、否定的にとらえられない下地を作っていたのだろう。  メイが妊娠していることは須田が気づかないうちに広まっていた。おそらく光子が広めたのだろうが、悪びれた様子もなかった。 「メイちゃんのお腹の子供は仁さんの子供だったんですね。そうじゃないかって思っていたんですよ。あんな若くてきれいな子がこんな潰れそうな印刷所で働きたいだなんて普通に考えてありえないですからね」  光子は必死に否定する須田を取り合ってくれなかった。須田が自分の子供ではないと言えば言うほど、周りは須田の子供だと思うようになっていった。メイもそう言われていることを知っているのに、特に自分からは否定しなかった。曖昧に笑ってばかりで、皆の言いたいように言わせていた。その様子はむしろおなかの子供が須田の子供であればいいと思っているようでさえあった。 「結婚はされないんですか」  大和はどこか不安そうに聞いてきた。 「一緒には住んでいるけど、部屋は別々だし、変な関係でもないから」  須田は配送の準備をしている大和から尋ねられるたびにメイとの関係を否定した。そのたびに大和はほっとしたような顔をして、なにも聞かなかったように仕事に戻るのだった。 「もう亡くなった奥さんに遠慮しなくてもいいんじゃないんですか。そろそろ自分の幸せに正直になってもいいと思いますよ」  遠慮しているわけではなかったが、大和は須田の背中を押しているつもりというよりも、須田を試しているように聞いてきた。 「赤ちゃんが産まれたら、ぼくにも抱っこさせてね」  陽平は無邪気に言ってくる。善悪の外側でただ楽しみにしているような陽平の笑顔をみていると、須田は笑って頭を掻くしかなかった。  ある日の夜、メイと夕飯を食べ終えた須田はいつものようにお茶をすすっていた。食べ終えた後の皿洗いはゆっくりお茶を飲んだ後で須田がやっていた。最初のころ、メイが洗おうとするのを無理にやめさせて以来、皿洗いは須田の仕事になっていた。料理をつくってもらっているうえに皿まで洗わせたら申し訳ないと思ってのことだった。  食事のあと、いつもならメイはすぐに部屋にいくのだが、この日はテーブルの前から動こうとはしなかった。メイも須田の真似をするようにお茶を入れなおしてすすっている。 「仁さんはいつまでたっても私の素性を聞こうとはしないんですね」  ついにこのときが来たと須田は思った。メイの過去、メイの事情を知りたいという気持ち以上に知りたくないという気持ちが隠れていたことを須田は自覚していた。知ればメイに対する気持ちが抑えられないようになるかもしれない。けして恋愛対象というわけではない。そう言い聞かせることができたのもメイの過去を知らなかったからだ。席を立とうかと思ったが、それはすでに遅かった。うまい言葉も思い浮かばず曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。 「仁さんには感謝しているんです。雇ってくれた上に住まいまでお世話をしてくれて。もし仁さんに出逢わなかったら、どうなっていたかわかりません」 「僕も小川さんに出逢えてよかったと思っているよ。仕事も助かっているし」 「それに私のこと何も聞かないでくれて……。素性がわからない女なんて怪しいですよね。信頼なんてできないと思います。隠していたというより、わたし、話す勇気がなかったんです。ややこしい女に関わったと思われたくなくて、それで追い出されたりしたら行くあてもなかったものですから」 「話したいことがあれば何でも話していいんだよ。心に溜めておくのも辛いだろう。なにも心配いらないから」  覚悟を決めた須田は椅子に深く腰掛けなおした。 「わたしが妊娠しているのは皆さんがすでに知っての通りなんですけど、結婚をしているわけでもないですし、結婚相手がいるわけでもないんです」  須田は語り始めたメイの目元をだまって見つめた。 「わたしには婚約者がいました……」  メイは言葉を選びながらゆっくりと話しはじめた。  小川メイは十八歳のとき山梨から東京へ上京をしてこの町のアパートから美術学校に通いグラフィックデザインを学んでいたという。美術学校でおなじ山梨出身の男性と出会いすぐに意気投合して恋に落ちたという。ふたりは付き合い始め、卒業を機に山梨にもどり別々の会社に就職をしたが、付き合いは変わることなく進展していき、この春にはプロポーズをされて婚約をしたという。同棲もはじめ、このまま結婚することに疑いも持たなかったという。  婚約をしてほどなく妊娠したのがわかったが、相手の男性にはそのことを言わなかった。言えなかったのではなく、言うタイミングを計っていたそうだ。より効果的に告げたかったとメイは言った。乙女のように楽しみをとっておくような気持ちでいたそうだ。  だが妊娠を告げる前に婚約破棄を言い渡された。突然だった。なんの前触れもなかったという。前日までいつもと変わらず仲良く過ごし喧嘩をしたわけでもなかったそうだ。 「どうして婚約破棄なんかされてしまったのかわかったのかい」  たまらず須田は聞いた。 「他に好きな人ができたと言われました。わたしと別れて、その人と結婚をしたいって」 「妊娠していることは言ったの」 「いいえ、言いませんでした」 「どうして、言いさえすれば婚約者だって小川さんのほうを選んだんじゃないかな」 「そんな理由で選ばれたくなかったんです。脅迫みたいで嫌だったんです」 「わからなくはないけど、それにしたって言ってみても良かったんじゃないのかな。どんな反応を示すかわからないけど」 「お腹の子供が彼の子であることには違いありません。だから彼には知る権利があると思うんです。でも言いたくなかった。知られたくなかったんです。彼を困らせてしまうことが怖かったんです。新しい彼の彼女にだって迷惑をかけてしまうし。知られてしまうことでなにか嫌なことを求められたりしたらと考えると不安でじっとしていられなかったんです」  メイは涙を流した。湯飲みに涙が落ちて弾けていく。テーブルに涙がひろがって黒い染みをつくっていった。 「ひどい男だな。婚約して同棲までしている相手がいるというのに、他の女と結婚したいだなんて。小川さんが可哀想でしかたないよ。そんな屑みたいな男と結婚しなくて良かったじゃないか。どうせそんな男じゃ、幸せにはなれないから」  慰めのつもりで言ったがメイは泣くばかりだった。須田は不誠実な男に対して腹が立っていた。もし男が目の前にいたら改心するまで説教をしていたかもしれない。 「ありがとうございます」と、メイは消えそうな声で言った。「それでこの町に逃げてきたんです。そのまま山梨にいたら、そのうちお腹も隠せないほど大きくなってきて妊娠していることもわかってしまうでしょうし、その、無理やり堕ろされてしまうかもしれないって思って、怖くなってなんの準備もしないまま汽車に飛び乗って、こんな遠くまで来てしまったんです。東京で馴染みのある場所といえば、以前暮らしていたこの辺りしかありませんから。いざ来てしまったら、お金もそんなにありませんし、東京にいる友達に相談すれば、きっと彼のところにも連絡がいくでしょうし、わたし途方に暮れていたんです。そんなときここの求人のチラシを見つけてみていたら、仁さんから声をかけていただいて……」  須田は大きく頷いた。箱テッシュを渡すとメイはテッシュを抜き取って涙をふいた。  子供は産むつもりなのか、と聞きたかったが聞けなかった。産むつもりで逃げてきたくらいわかっていた。もし子供を諦めてしまえば、メイには人生をやり直すための選択肢が増えるだろう。たとえ子供を諦めることを選んだとしても批難はできない。当然の権利だからだ。だが、もし他人事として聞いていたならば諦めることを勧めたかもしれない。身近な存在だからこそ、須田は安易に否定も肯定もできなかった。ただ、すこしでもメイの力になってあげられたらと思うばかりであった。胸につかえたことを吐き出せたからだろうか。話し終えたメイは目を赤くしたまま微笑んだ。やわらなか笑み、須田は胸が締め付けられるようで、無意識に両手をつよく握っていた。  須田が夢をみたからといって誰が責められるだろうか。メイと結婚をして、メイが産んだ子供を自分の子供として育てる。現実味のない妄想といってもよいのかもしれない。だが須田はそれを一瞬でも夢見てしまったことに苦しんだ。亡き妻の諒子に申し訳ないという気持ちがすぐに夢を蝕んでいった。このまま生涯独身でいなければならないという想いは持つ必要のないものかもしれない。誰からも求められているわけではない。須田が勝手に決めてしまっているものだ。結婚をすれば祝福をしてもらえるだろう。そうわかっていても須田は過去を切り離して新しい未来を築こうとすることができなかった。  メイの告白を聞いて一週間もしないうち、その男は突然やってきた。夕方になり、曇った空から雨がぽつぽつと落ち始めていた。男は小雨には不必要なほど大きな傘を握りしめ、印刷所の事務所へとむかう階段をのぼってきた。真夏にもかかわらずきちんとネクタイを締めスーツを着ていたが、額には汗ひとつかいていなかった。  この日、二階の事務所には須田と光子とメイがいた。普段と特に変わったこともなく、いつもどおりに座って仕事をしていた。男は事務所に入ってくると、カウンターの前に立って近くに光子に声をかけてきた。 「こちらに小川メイさんはいませんか」  口調は丁寧で声に落ち着きが感じられたが、客のようには見えなかった。わかりにくい二階の事務所に飛び込みで仕事を依頼してくる客など滅多にいなかった。ごくたまに同人誌の印刷を頼みにくる人はいたが、そういう人とは雰囲気がまるで違った。 「どなたですか」  きちんとした身なりからなにかの営業と思ったのだろう。光子は沢庵をかじりながら冷たく尋ねた。 「荒戸和彦といいます。そのう」と、言い淀みながら事務所の中を見渡していた。そしてパソコンの影から見つめているメイのおびえた瞳を見つけた。  メイは立ち上がると荒戸の前に歩み寄り、カウンターの前の打ち合わせ用テーブルをだまって指さした。荒戸はメイを見つけて一瞬嬉しそうに微笑んだが、メイの固まったような顔を見て黙った。椅子に腰をおろすと天井の蛍光灯を見あげたり事務所の奥の棚を見たりと落ち着きがなかった。  メイは隣の須田に頭をさげると荒戸と少し話をさせてほしいと頼んだ。そして須田にも同席をしてほしいと頭をさげた。メイの動揺した様子から荒戸がもとの婚約者だとわかった。須田は確かめることもなく頷くと、中を確認中の金庫を急いで閉じて机の一番下の引き出しに鍵をかけてしまうと、席をたってメイの後につづいた。 「ご用件はなんでしょうか」  座るなりメイは刺すような口調で言った。 「えっと、こちらの方は」  荒戸は動じることもなく須田を不思議そうに眺めた。 「ここの社長です。わたしが頼んで同席してもらっているんです」  須田は小さく頷くと正面からあらためて荒戸の顔を見た。  歳はメイと同じのはずだが、メイよりも十歳は老けて見える。銀縁の眼鏡をかけているせいか真面目そうにも見えるが、どこか神経質で融通の利かないタイプのように感じられた。 「元気そうだね。安心したよ」  荒戸はぎこちなく口角をあげると言った。 「どうしてわたしがここにいることがわかったんですか。誰にも言っていなかったのに」 「急に家を出て行ったから必死にさがしたんだよ。家族や友達や勤めていた会社の人なんかにも聞き回った。みんなわからないって言うんだ。僕が暴力をふるったんじゃないかって疑う人までいたくらいだよ。聞き回っているうちに、メイが病院に行ったのを見たという人に出会ったんだ。アパートの隣に住む山田さんなんだけど、メイが産婦人科から深刻そうな顔をしてでてくるのを買い物帰りに見たんだって。それで、病院に行って看護師さんから聞き出そうとしたんだけど、個人情報とかいって教えてくれなかった。でも僕には看護師さんの顔色だけでピンときたんだ。なあ、子供ができたんだろう」  メイは目をそらせて荒戸の問いかけに答えようとはしなかった。荒戸はそれでも確信したように続けた。 「僕の子供だよね。なぜ言ってくれなかったんだい。急に妊娠なんかしてびっくりしてしまったのかな。だからといって黙って家を出なくてもいいじゃないか。やり直すことだってできたはずだよ」 「やり直す……。どういうことですか」 「言葉通りだよ。僕が婚約を解消して他の子を好きなったからメイは僕との関係を諦めてくれたんだろう。でも状況は変わったじゃないか」 「状況って、わたしが妊娠したことですか」 「そうさ、僕の子供を妊娠したんだ。これってメイだけの問題じゃないよね」 「あなたの子供じゃありません。あなたには関係のないことです」  荒戸は困ったように笑った。 「じゃ、誰の子だというの。僕と婚約しておいて、その間に誰かと付き合っていたとでもいうのかな」 「こちらの須田社長との子供なんです」  唐突なメイの言葉に須田の肩がビクッと震えた。荒戸は舐めるように須田の顔を見ている。 「嘘だろう。メイの嘘なんてすぐにわかるんだから」 「嘘じゃありません。嘘なんかじゃ」  荒戸は仕方なさそうに須田のほうに体を向けると投げやりに聞いてきた。 「社長さんはどうなんですか。メイの言っていることは本当なんですか」  須田の頭は真っ白になった。事実をそのまま言ってしまえば良いのか。それともメイの気持ちをくんで別の言い方を考えるべきなのか。考えるような時間はない。 「小川さんの言うことは本当です。その、お腹の子は僕の子供です」  とんでもないことを言ってしまったと須田は思ったが、意外なほど後悔はなかった。なぜだろう。普段は苦し紛れの嘘なんてつくことなんてなかったのだが、このときだけはその嘘が心地よい。 「話にならない。こんな潰れそうな会社の社長っていうのは嘘を平気で言うんだな。こんなところはきっと仕事にしたっていい加減で適当なんだろうよ。だから建物だってボロボロなんだよ」  荒戸は笑いながら吐き捨てるように言った。年齢もかなり上の須田に対して敬うような素振りもなかった。思うように話が進められなくてイライラしている感じであった。  メイは須田の返事に驚いていた。きっとすぐに否定されると思っていたようだ。 「どうしてわたしがここいるってわかったの」  メイは須田との関係を深く問われることを避けるように言った。 「そんなの簡単だよ。この町には以前住んでいたし、山梨にいないのならここしかないじゃないか。昔住んでいたアパートの周りで聞き回ったんだよ。ホテルや不動産屋なんかにもね。それでこの辺で聞きまわっていたら、電気屋の店主が最近、この印刷所に勤め始めた人に似ているっていうから来てみたわけさ。相変わらず、メイはいろいろな人と仲良くしているみたいだね。おかげでこうやって探し出すことができたってわけだよ」 「わざわざそんな苦労までして、やり直したいんですか、わたしと」  メイの口調は丁寧だが疑っている感じがする。婚約までした相手というのに話し方には距離がある。まるで他人以上の他人といった態度といっても間違いではないだろう。愛情の欠片もない。荒戸が鈍感だからか、そのことがまるで伝わっていないようだった。荒戸は自分の世界にまだメイがいると信じているようにみえた。 「ぼくの子供だからね。当然引き取りたいと思っている」  もしかしたら荒戸はメイと結婚したいというよりも、単に自分の子供を手元に置いておきたいということではないだろうか。荒戸にしたって愛は終わっているのではないか。 「もし子供が産まれて、その子供だけをあなたに引き渡すと言ったらどうしますか」  メイも同じことを感じていたのだろう。怒りを押し殺しながら静かに聞いている。 「簡単に返事ができることじゃないな。メイがぼくと結婚してくれるなら話は簡単なんだけど、もしぼくと一緒になるのが嫌で、子供だけを渡したいというのなら、メイと別れることになった原因の彼女と結婚して子供を引き取りたいと思っている。でも僕だけの考えでどうにかなるものでもないしな。こういった話はきちんとメイの意見も聞いて、新しい彼女の意見も聞いてから決めなくてはならないと思うんだ」  一番大切なものが抜け落ちている。荒戸は気づかないのだろうか。それともそんなことはどうでもいいことなんだろうか。胸の奥に濁った怒りがわいてきたが、須田はそれを表に出さないように堪えた。 「小川さんのお腹の子はこの僕の子供です。あなたには渡しません。僕はあなたと違ってメイさんを愛していますから」  思わず出た言葉は滑稽だった。一瞬の沈黙の後、荒戸は遠慮なく大口をあけて笑った。笑い声は事務所の外にまで響くほどだった。  メイは顔を赤くして俯いている。恥ずかしがっているのか、怒っているのか、戸惑っているのか、さまざまな感情が出ていく先もなく溜まっているような表情だ。 「一緒に山梨に帰ろう。家族になって暮らそうよ。それが一番正しいことだと思うよ。なあ、子供は血の繋がった両親と一緒に暮らすのが一番だと思うだろう」  メイは黙ったままだった。荒戸の目を見ることもしなかった。  明日返事を聞きにくる、と言って荒戸は事務所を出ていった。メイの返事に自信があるのか、不安な様子はなく階段を降りていく足取りも軽かった。  荒戸に感じた違和感がなんなのか、遠くなる足音を聞いているとわかってきた。荒戸は妊娠中のメイの体をまったく心配していなかった。メイがふるさとを離れなければならなくなって事情を作っておきながら、それを詫びることもなかった。相手の感情を気にすることもなく自分の言いたいことだけを言っていた。一見、産まれてくる子供の幸せを願っているようで、荒戸が願っていたのは自分自身の幸せだけだった。荒戸にはメイは必要がない。表面的な家族という形さえ整っていれば、それで充分なのに違いない。須田は怒りを忘れ悲しくなった。メイを渡してはいけない。メイの子供を渡してはいけない。その想いを無意識に胸に刻みつけていった。  荒戸が帰った後もメイはながく黙って考え込んでいた。なにかを語るわけでもなく、同席した須田に礼を言うわけでもなく、事務所を騒がせたことを詫びるわけでもなかった。そういうことはメイにしては珍しいことだった。須田も話に耳を澄ませていた光子もそんなメイを見守るだけで、いつものように笑い話にして軽口をたたくことができなかった。  その夜、メイは三階の家に帰ってこなかった。荒戸が帰ったあと、メイは普段と変わらず仕事にもどった。仕事をする気持ちでもないだろうから、今日は早上がりをしてもかまわないと須田は言ったが、仕事をしていたほうが気持ちもまぎれるからと言ってメイは仕事を続けていた。荒戸のことについて、いろいろと聞きたかったこともあったが、聞かれたくないのだろうと思ってメイの望むようにさせていた。光子も聞きたそうに須田に何度も目で合図をおくってきたが、わざと気づかないふりをしていた。  須田はいつもより早く仕事を切り上げ、事務所にいる光子も陽平がくると同時に帰らせた。早く帰っても給与は定時分きちんと払うと言うと、遊びたがる陽平の手を握って喜んで帰っていった。大和にも金澤にも一階の工場をしめて早く帰るように告げると、須田は三階の我が家へあがっていった。  メイを一人にしてよかったのか。わずかな不安はあったが、慰めさめたりすればメイを惨めな気持ちにさせてしまうようで須田は優しい言葉をかけようにもかけられなかった。メイのお腹の子供を自分の子供だと言っただけでなく、こともあろうに愛しているとも言ってしまったことにたいする後ろめたさもあった。つい勢いで言ってしまったが、そのことをメイがどう思っているか。嫌な気持ちにさせたのではないか、困らせたのではないか、そんな想いを須田自身もうまく自分の中で受け入れられないでいた。  せめてメイのために夕飯を作っておこう。そう思って冷蔵庫を開けたが、須田に作れるものなどない。メイと暮らす前は外食ばかりしていた。まともな料理なんて作れるはずもなかった。それでも須田は出来る限りのことをしようと思った。米をとぎ、米を炊くことくらいできる。ウインナーを焼き、目玉焼きをつくる。卵焼きはうまく作れないから、ベーコンを細かく切ったものを混ぜてスクランブルエッグにしてみる。味噌汁もつくれないから、お湯をかければいいだけのインスタントを用意する。後は冷蔵庫に入っていた梅干しと海苔と茄子の漬物を取りだして食卓にならべる。これだけでは物足りないが、家に帰って来たメイに食事の準備をさせなくてもよいのなら、こんな稚拙な食事でもなにもしないよりはましだ。なにもしなければメイのことだ、必ずいつも通りに炊事場に立つことだろう。こんなときにそんなことに煩わせてはならない。  しかしいつまで経ってもメイは返って来なかった。しびれを切らして二階の事務所に降りてみればメイの姿はなかった。きっと気分転換にどこかにでかけたのだろう、と思って三階に戻りじっと時計を眺めながら待ったが、いつまで待ってもメイは帰ってこなかった。朝になり、仕事が始まる時間になってもメイが職場にくることはなかった。光子に聞いても知らないという。大和も金澤も知らないと言った。外に出て喫茶店(たそがれ)のマスターやラーメン屋の店主、電気屋の奥さんにも尋ねたが姿すら見ていないという。  途方に暮れている間に午後十二時になり、メイのもと婚約者の荒戸がやってきた。やはり真夏にもかかわらずネクタイを締めスーツを着ている。荒戸なりに気を使って昼休みの時間に合わせて来たのだろう。二階の事務所に入ってくるなり小声で光子に向って「メイはいますか」と尋ねてきた。光子は首を横にふると、須田の方を見て説明をするように目で急きたてた。  須田にはうまく誤魔化すなんて芸当はできなかった。事実をそのまま伝えるしかなかった。昨日の夜から姿を消してしまったことを話すと、荒戸は急にカウンターを叩き喚きだした。 「隠したんだろう。メイをどこにやったんだ」 「落ち着いてください。小川さんはまだ出社してきていないんです。連絡もないから私どももわからないんですよ」  諭すように須田は言ったが、荒戸は信じようとはしなかった。 「どうせ安い給料で働いてくれる奴が辞められると困るんだろう。だからどこかに隠したんだ。俺だって常識というのをわきまえているよ。多少はそちらの仕事に迷惑をかけさせないように辞めさせようと思っていたんだが、こんな非道なことをされてはそんな甘いことも言ってられないな」 「いや、本当に本当でして、私どもも心配をしているんです」  話してもラチがあかないと思ったのか、荒戸は事務所の奥くに入ってくると、使われていない作業場まで入っていき物置の扉を開けたり、ロッカーを開いたりしてメイを探し始めた。苛立っていたのか関係のない机の引き出しまで勝手にあげて確かめていった。 「おい、隠れていないで出ておいで。なにも心配しなくていいから。全部俺がうまく片付けてやるからメイは俺についてくるだけでいいんだよ。面倒なことは何もないから」  荒戸の言葉に反応はない。物音が聞えてくるわけでもない。  事務所を出て階段を駆け下りていくと、外から工場の引き戸を開きなかに入っていった。蛍光灯が瞬きをするように点滅している薄暗い工場のなかを見回すと、荒戸は大声で怒鳴った。 「どこに隠れているんだ。怖がらなくてもいいから、話をしよう。ぼくにはメイが必要なんだ。ぼくの子供を盗らないでくれよう」  印刷機のまわる音にかき消され荒戸の声は濁って聞える。  印刷工の金澤は奥から荒戸と須田を一瞥しただけで機械から離れようとはしない。危険だからということもあったのだろうが、金澤は気むずかしい。気楽に話しかけられるのが好きではないのだ。 「あんた、小川メイを知らないか」  荒戸の無遠慮な問いかけに金澤は眼光するどく睨みつけるだけで答えようとはしなかった。荒戸は工場内を歩き回ることもなく、なかを見渡しただけで諦めたように首をふった。 「おわかりになったでしょう。どこにも小川さんはいませんから」 「ここにはいなくても、近くにかくまっているということも考えられますね。どうもいくら聞いても口を割りそうにはありませんね。こちらで勝手に探させていただきます。お邪魔しました」  そう言い捨てると荒戸は扉を閉めることもなく須田印刷所を後にした。須田が荒戸の背中を追っていると、荒戸は喫茶店(たそがれ)に入っていった。そして窓側の席を陣取りじっとこちらを見始めた。喫茶店から印刷所に出入りする人をチェックするつもりなのだろう。粘着質な荒戸の行動に須田は嫌なものを感じたが、それほどまでにメイのことを想っていると思うと、滑稽さと哀れさを同時に感じずにはいられなかった。  荒戸は毎日喫茶店(たそがれ)にやってきては朝から晩まで須田印刷所を見張り続けた。喫茶店の開いていない時間は空き地に立って監視していた。いくら見張られようとメイを隠しているわけではないのだから負い目を感じることはなかったのだが、見張られるというのは気持ちのよいものではない。須田はため息をつく程度だったが、若い大和はじっと見張られていることに腹が立ったのだろう。空き地に荒戸が立っているとき何度か文句を言いにいったが、荒戸は動じることもなく居続けた。一度、たまりかねた大和が男を追い出すために殴りかかろうとしたことがあったが、空手でもやっていたのか簡単に大和はねじ伏せられてしまった。それ以来、遠くから罵声を浴びせかけることはあっても、大和が荒戸に近寄っていくことはなかった。  陽平も母親の光子から言われたのか荒戸に寄りつくことがなく、荒戸がいると大和を誘って空き地でキャッチボールをすることもなかった。文句を言いながらも空いた事務机に座っておとなしく宿題をしていた。  一週間の間、荒戸は須田印刷所を見張り続けた。須田印刷所を見ていない間は近所の店や住宅をまわってメイの姿をみなかったかと聞き回っていた。いくら監視しようと聞き回ろうと、いないものはいない。荒戸はただ時間ばかりを消化していった。  須田は一週間経ったある日、一度だけ荒戸のいる喫茶店(たそがれ)に出向いた。あらためて何も隠していないこと、本当にメイの居場所を知らないことを話そうとした。荒戸は疑い深そうに聞きながらも須田が嘘を言っていないことを理解したようだった。 「社長さんはもしかして本当にメイのことが好きなんじゃないんですか。この前はメイをかばうために、お腹の子を自分の子だなんておかしなことを言っていたけど、それって願望だったんじゃないんですか」  怒っているわけでもなく、馬鹿にしているわけでもなく、荒戸は無口なマスターの入れる七杯目の珈琲を飲みながら淡々と聞いてきた。 「何を言っているんですか。僕はただ……」  須田は次の言葉が出て来なかった。気持ちを言葉に表すことが怖かった。 「聞いた僕が馬鹿でした。どうやら社長さんは正直者のようですね」  荒戸は軽く悪意なく笑うと、なにか答えようとする須田を遮って話をつづけた。 「僕は何も産まれてくる子供を手に入れたくてメイを探しているのではないんです。子供の幸せを第一に考えてのことなんですね。父親はいないよりいたほうがいいに決まっている。家族だってあったほうがいい。僕個人の幸せを考えているんではないんです。それは多少我慢をしなければならないことだってあるでしょう。でもメイと結婚して子供を産んで、家族としてともに暮らしていくことが、この状況のなかでは最善の選択だと思っているんです。なにも乱暴に権利を主張しているわけではないんですよ」 「小川さんへの気持ちは。その、愛してはいないんでしょう」 「愛なんて、ぼんやりしたことを聞かれても答えようがありませんよ。もちろん嫌ってはいません」 「新しくできた恋人のほうが好きなんですよね」 「まあ、どちらかといえばですね。でもそれは子供を授かる前のメイと比較してのことです。いまは状況が変わりました。愛や恋だと甘いことをいう段階ではもうありません。なによりも産まれてくる子供のために最適な環境を整えてあげることこそがなによりも優先されなければならないことなのです」  荒戸は饒舌にしゃべった。 「僕にはよく理解できないようです。本当にそれが子供のためなんでしょうか。そしてあなたのためなんでしょうか。小川さんのためなんでしょうか」 「さあ、どうでしょう。未来は確定しているわけではありませんから。ぼくはただあなたがたに、自分は犯罪者でもなければストーカーでもないと伝えたかったのです。もちろんメイを探す協力をしてくれれば助かりますが、それが嫌ならば、せめて邪魔をしないでいただけたら助かります」  この男とはいくら話してもわかり合えることはないだろうと、須田は思った。理屈はわかる。だが理屈だけでは人間は生きていけないと須田は思っていた。  荒戸は明日の朝には東京を発って山梨に帰ると言った。高校で数学の教員をしているらしく、長期休暇を取るにもこれが精一杯だったようである。メイと結婚した後の生活を考えると仕事を辞めるわけにもいかないし、この町に引っ越して来て新たに仕事を探すわけにもいかないようだ。ふるさとで教員というやりがいのある仕事についているからこそ、安心して子育てもできると思っているようだ。  荒戸がいなくなるとメイが戻ってくるかもしれない。それを考えると須田の頬はゆるんだ。荒戸はその表情を見つめていたが、気にもとめないふりをしていた。帰ってしまえばどうすることもできないことがわかっていたからだろう。 「またすぐに戻ってきますから」  粘着質な余裕をみせながら荒戸は言うと、なぜか須田に握手を求めてきた。須田が戸惑いながらも手を差し出す手を、荒戸は指が潰れそうなほどつよく握りしめてきた。  翌朝、事件は起こった。会社の金がなくなっていたのだ。須田はいつものように午前九時前に二階の事務所に降りてきたのだが、そのときはすぐには気づかなかった。外注先への支払のため鍵のかかった机の引出しをあけて、奥から金の入った金庫を取り出そうとしてようやく気がついたのだった。小さな金庫まるごとなくなっていた。引出しに鍵はかかっていた。誰かが鍵を開けて、金庫を取りだし、また鍵を閉めたということだ。  金庫の鍵は三段ある引出しの一番上、筆記道具などを入れている場所に入れてあった。空になったプラスチック製の名刺ケースを鍵入れにしていた。そこに鍵は戻っていた。  金庫は一番下の鍵付きの引出しに入れてあった。鍵のある場所、金庫のしまわれている場所、両方を知らなければこんなにあざやかに金庫だけを奪っていくことなんてできないだろう。  最初、須田はどこかに運んで置いたままにしているのを忘れたのかもしれないと考えた。しかし、どう思い出しても金庫を自分の使っている事務机のうえ意外に動かした記憶がない。直近では二日前に将棋倶楽部の会員名簿を印刷した代金を受け取り、金庫にしまった記憶がある。それが最後だ。それ以降は確かに金庫を開けていないし、事務の光子に金の出し入れを頼んだということもなかった。  会社の金はすべて銀行に預けるべきというのは景気のよい会社の言い分である。須田印刷所のように自転車操業の会社は常に手元に現金を置いておかなければならない。そうしなければ、いつ銀行が預金を引き出せないようにしてしまうか心配でならないからだ。一度でも借りている金の返済が滞ってしまったら、と考えるとどうしても手持ちの現金がなければ安心ができないのである。それだけでなく将棋倶楽部や商店のような小さな取引先は振込み手数料のかかる銀行振込みではなく、集金を求めてくるということもあった。須田は亡くなった父親から会社を引き継ぐときにアドバイスされた通り、経営の継続に必要なかなりの現金を金庫にしまっていた。  倒産、という言葉が現実のものとして脳裏をよぎった。どうしたらよいのか咄嗟には判断ができない。須田はただ事務机の前に立ちつくしていた。自分の貯金をくずせば十日後の返済はなんとかやり過ごせるかもしれないが、すぐ次の返済日が迫っているし、社員の給与の支払だってしなければならない。次の入金日は二十日後だ。たとえ客先からの入金があったとしても焼け石に水だ。  声にならない呻きを発していると、出勤してきた光子が顔を覗き込んできた。 「青い顔をしていますけど、どこか体調でも悪いんですか」 「金庫がなくなったんだ。知らないか、どこにいったか」  須田の勢いに驚いた光子は、開けっ放しになっている引出しを見て眉をしかめた。 「よおく思い出してください。うっかりものの仁さんのことだ、ロッカーの中とかにしまったんじゃないんですか」  須田はロッカーに行き、扉をあけたが作業着が入っているだけで金庫はなかった。 「いや、引出しにしまった記憶がちゃんとあるんだよ。持ち出してなんかいないし」 「私は知りませんよ。疑ったりしないでくださいよ」 「淡路さんを疑ったりしないよ。それにうちの会社のだれかが盗んだなんてことも考えていない」 「じゃ、誰が取ったというんですか。ここにお金があることなんて、会社の人しかしらないじゃないですか」 「いや、うちの誰かが盗ったなんてあり得ない。きっとどこかにある。すぐに見つかるさ」  根拠などない。ただ信じていただけだった。 「まったく、そんなにお人好しだから簡単にお金を盗まれてしまうんですよ」 「まだ盗まれたと決まったわけではないし、そのうち戻ってくるかも」 「はいはい。とにかく早く見つけないといけませんね。わたしも探すのを手伝いますから」  光子はそう言うと、鞄を事務机のうえに置いて、すぐに金庫を探し始めた。自分の机の引出しはもちろん、使っていない事務机の引出しやロッカーの中や書類棚の奥や段ボールの底などを探していった。事務所のなかを隅々まで確認していった。  いくら探しても見つからないとわかっていながらも、須田も一緒になって探した。いまは使われていない物置となった部屋も、使い古しの動かないパソコンの裏も印刷見本紙の下もくまなく探していった。  いつの間にか階段をのぼってきた大和がドアのすき間から事務所の中を覗いていたことに須田も光子も気づいていなかった。大和は事務所に入ろうとドアに手をかけ少し開けたところだった。ドアを開けた途端、すき間から須田と光子のあわてた様子をうかがっていた。いつもなら構わず入っていくのだが「大和くん」という光子の言葉が聞えて思わず立ち止まってしまったのだ。 「はっきり言って、こんなことをする人がいるとしたら大和くんしかいないと思うの」  光子は汗ばんだ額の汗をぬぐいながら言った。はやくも探すのを諦めているようだった。 「ちがう、ちがう。大和はそんなことをするような奴じゃない」 「だって、給与の前借りをしょっちゅうしているじゃないですか。お金に困って、もう仁さんには頼めなくて、つい金庫の金に手を出してしまったんですよ。そうに決まっている。金澤さんは二階にはあがってくることないし、ほかに事務所に入ってきた人なんていないでしょう」 「給与の前借りをしても、大和は黙って会社の金を盗むような奴じゃないよ。あいつは真面目で正直なんだ。裏切るようなことなんてするわけがない」 「じゃ、誰ですか。もしかしたら、小川さんかもしれませんね。たまたま仁さんが今朝まで金庫の確認をしなかっただけで、うちをいなくなったときお金を盗んでにげたのかもしれませんね」 「そんなことは絶対にない。彼女がいなくなってから金庫を出したことがあるんだ。だから小川さんは関係ないよ」 「仁さんの記憶違いじゃないんですか」 「覚えてないほどまだ歳を取っていないよ」 「なら、やっぱり大和くんの一番可能性がたかいと思うんですけどね」 「なあ、淡路さん。だれかを疑うのはやめようよ。胸の底がまっ黒になってしまうような気がしてならないから」  須田は涙をためながら言った。身近な人を疑うことは須田にとって耐えられないことであった。もし須田の猜疑心が人並だったなら、大金の入った金庫を事務机の引出しなどにしまったりはしないだろう。須田はあまりにも人を疑うことを知らなかった。  須田は亡き妻の諒子と結婚してすぐの頃、心配する諒子を説得して知り合いの借金の連帯保証人になったことがある。そば屋を開く資金を借りるにあたって銀行から保証人が必要だと言われたそうだ。高校時代の同級生だというその知り合いとはたいして親しいわけでもなく、友達というのも微妙な関係だったのだが、須田は迷うことなく連帯保証人になった。  結果、その知り合いは半分ほど借金を返した時点で店を畳んで夜逃げをしてしまった。残りの半分の借金は須田が返すことになったのだが、そのことに怒ることもしなかったどころか、いまでも逃げた知り合いは負担した金を須田に返しに来ると信じていた。騙されたとはいえないまでも、裏切られたのは間違いがなかったが、どうしようもない事情があったのだろうと、須田は知り合いの苦しみを思って涙さへ浮かべることがあった。  そんな須田のお人よしな性格を知る光子は「わたしが金庫を預かるべきでした」と言って、諦めたように口を閉ざした。  ふたりの様子をじっと見ていた大和はドアの音をたてないように静かに閉めた。そして足音をたてないように静かに階段をおりていった。ドアが閉まるのに気づいた須田はゆっくりと階段をおりていく大和のほそい背中をみつめていたが、反対側を向いている光子にはなにも言わなかった。光子に見つからなくてよかったと須田は思いながら、ぱちぱちと瞬きをしていまにも切れそうな蛍光灯の明かりを見あげた。  数日の間、須田はだれにも頼ることなく一人で金庫を探し回った。事務所の中だけでなく、一階の工場や三階の自宅のなかも隅々まで見つけ回っていった。金庫が出て来ないことくらい予想がついたが、万が一の可能性にすがりついた。  須田がなにを探し回っているのかは、光子が言いふらすまでもなく印刷所の大和にも金澤にもすぐに伝わった。  須田印刷所存続の危機であることくらいわかる。こういうときいつもの大和なら無遠慮に須田に状況を聞いてくるのだが、このときはなぜか黙って見守るだけで何も聞いてこようとはしなかった。金澤は知ろうが知るまいが、普段と変わることなく黙って印刷機を動かすだけだった。  ついに須田は諦めた。金庫は見つからない。金を借りるあてもない。銀行はこれ以上融資してくれないだろう。むしろ知れば強制的に資産を差し押さえられてしまう恐れさえある。知り合いや付き合いのある企業に頭をさげて金を借りるべきだろうか。貸してくれる方が現れるかもしれない。これが須田個人ならばそうしたかもしれない。須田印刷所は法人である。法人がただの一度でも公的金融機関や銀行ではなく、取引先企業や個人的な知人から金を借りてしまえば法人としての信用はがた落ちになってしまう。たとえ借りられたとしても一時的に助かるだけで、信用を失った会社はそう時間がかかることなく倒産してしまうだろう。借りた金を返せない可能性だった充分に考えられる。  ある日の朝、須田は全員を事務所に集めた。須田の口からなにが語られるのか、おおよその想像がついているのか、皆一様に表情がかたかった。 「会社を清算することにした」と、須田は重い口を開いた。「金庫から会社の金がなくなり、このままでは須田印刷所は遠からず倒産してしまう。倒産してしまえば、みんなの給与も払えなくなるし退職金も出せなくなる。でも今、まだ辛うじてやっていけるときに精算してしまえば、なんとか給与も退職金も支払えそうなんだ。可能な限り多くの金をみんなには支払うつもりだ。次の仕事をみつけるにも時間がかかるだろうし、会社がなくなってもみんなは生きていかなければならないから。僕もみんなの再就職先はさがすつもりだ。知り合いの印刷会社に声をかけてまわるよ。これまでのみんなの努力に報いられるようにしたいと考えている。これから迷惑をかけると思うけど、どうか心配しないでほしい。きちんとみんなのことは考えているから……」 「仁さん、給与はわかるけど、退職金を払う金なんてないでしょう」  光子がささやくように聞いてくる。 「すべてを売却するつもりだ。ここの土地も建物も印刷機もパソコンも机もなにもかもお金にかえる。売るまでに時間は少しかかるかもしれないけど」 「それじゃ、仁さんの家もなくなってしまうんじゃないの」 「近くで安いアパートでも借りますよ。幸い独り身だからなんとかなるから」  須田はうつむきながら笑った。  すると堪えていた感情が爆発したのか、光子は体の向きを変えて大和をみると獣のように声を荒げた。 「あんた、いつまで知らんぷりしているつもりなの。わたしが知らないとでも思っているの。あんたでしょ、仁さんの机の引出しから金庫を盗っていったのは……」 「す、すみません」  大和は頭が床につくほど深く腰をまげて詫びた。 「やっぱり、そうじゃないかって思ったのよ。こんなに仁さんにお世話になっておきながら、あんたって人は……。すぐに盗った金を返しなさいよ」  光子は言い寄ると大和の作業着の襟をつかんで揺さぶった。 「返したくても返せない。金は持っていないから」 「まあ、もう使ってしまったの。なに、メイド喫茶のリカちゃんとかいう人に貢いだりしたんじゃないでしょうね」 「リカちゃんにはふられてしまったから、前借りした給料で買った指輪を渡したあとで」 「騙されたんだ、それって」  大和は苦しそうに襟元をおさえた。 「とにかくなんとかしないさいよ。そうじゃないと警察に言うからね」 「俺、給与はいりません。退職金もいりません。消費者金融からでも、友達からでも借りて必ずお金は返します。だから、どうか許してください」 「あんたなんかにお金を貸してくれる奇遇な人なんて仁さん以外にはいないんだよ。だいたい、あんな大金を何に使ったんだい」  大和は口をきつく結んで答えようとはしなかった。 「どうせ、新しい女にでも貢いだんでしょう。いくら金をつかったって、モテない男はモテないんだよ」  須田は不思議と大和に対して怒りがわいてこなかった。いくら怒ったとしても、なくなった金は戻ってこない。むしろ須田は、これからの人生で大和が金を盗んだという事実を背負い込み潰れてしまわないか、とそちらのほうが心配であった。  少しの沈黙の後、勢いよく事務所のドアが開いたかと思うと若い女が飛び込んできた。小川メイだった。息を切らしているところを見ると、急いで階段をのぼってきたのだろう。腹はさらに大きくなっているが、凜とした眼差しは以前のままだった。 「お帰り、元気そうだね」  須田はメイが突然戻ってきたことが嬉しくて微笑んでしまった。 「ごめんなさい。ごめんなさい」と、メイは何度も頭をさげた。 「どこに逃げていたんだい。もうあの男は山梨に帰ったよ。また来るとは言ってたけどね」  光子はどこか投げやりに言った。いまさら帰ってきても印刷所が潰れるのだから意味がないと思ったのだろう。 「お金を盗んだのは大和さんじゃなくて、わたしの元婚約者の荒戸です。大和さんを責めないでください」 「いったいどういうことだい。なんで小川さんがそんなこと知っているんだ」  須田は椅子を持ってくるとメイに座るように勧めた。メイはお腹をいたわるようにゆっくりと腰を屈めていった。 「荒戸がわたしを探し回っているときに大和さんはいろいろ聞かれてつい言ってしまったみたいなんです。会社の経営状況とか資産のこととか、仁さんのことも細かく聞かれたみたいで、ちょうど彼が事務所にきたとき仁さんが机の引出しに鍵をかけていたみたいで、そこにどんな重要なものが入っているのか聞かれて、大和さんはつい金庫のことを話したみたいなんです。まさか盗まれるなんて夢にも思ってなかったみたいで」 「それじゃ、金庫のある場所を教えただけで、大和が盗ったわけじゃないんだね」 「はい」と、メイは大きくうなずいた。 「なら、どうして。大和のせいというわけじゃないじゃないか」 「俺が悪いんです。俺のせいで、あの男は金を奪うことができた。おれが金庫のことなんか言わなければこんなことにならなかったのに……」  大和は目を真っ赤にしながら自分の膝をたたいた。  須田はほっと胸を撫下ろした。もちろん大和を責めるようなことは言わなかった。むしろ須田は大和をなぐさめた。  いずれにしても金はなくなってしまった。あの神経質で隙のない荒戸が罪を簡単に認めるとは思えないし、認めたとしてもそれまでには時間がかかるだろうし、時間がかかればやはり取り戻す前に印刷所は潰れてしまう。 「とにかく金庫のことがはっきりしてよかった。みんなのこれからの見通しがたつようにきちんとするから、どうか少しだけ頑張ってくれ」  どこか明るさを失わない須田の言葉に、光子も大和もメイも大きくうなずいた。金澤だけが無表情なまま黙っていたが、その瞳は澄んだ泉のように怒りも悲しみもなかった。  メイはタイミングを計るように立ち上がると、事務所のドアを力いっぱいに開けた。すると階段一番上の段に荒戸が両腕に金庫を抱えて座っていた。スーツではなく灰色のポロシャツを着て気まずそうな顔をしている。  荒戸は金庫を抱えてゆっくりと腰を上げると事務所のなかに入ってきた。須田の前の使われていない事務机のうえに金庫を置くと、深々と頭をさげた。 「お金にはいっさい手をつけていませんから」  怒りよりも前に、予想もしなかった男が突然現れたことに須田と光子は驚いて瞼をとじたり開いたりするだけで何も反応ができないでいた。 「えっと……申し訳ありませんでした」と、荒戸は仕方なさそうに言った。「この金庫を借りた理由ですが、お金がなくなればこの会社は潰れてしまうと思ったからです。会社が倒産すればメイは働き先をなくしてしまうから、僕を頼ってくると考えたんです。そうしたら僕はメイに手を差し伸べるつもりでした。結婚するのだって難しくなくなるだろうって考えたんです。もちろん金庫はそのあと返すつもりでした」  荒戸は下手な役者がセリフを棒読みにするように言った。無理やり言わされているような言い方だった。 「わたしが彼を連れてきました。返さなければ警察に届けるって言ったんです。返させるだけでなく、ここに連れてきてきちんと謝らせたかったんです」  唐突に荒戸は事務机を拳でたたくと、いら立ちをあらわに足で床を三度踏みつけた。 「金庫なんか盗る必要はなかったんだ。メイとの結婚なんてもうどうでもいい。あの後、山梨に帰ってみれば新しい彼女が妊娠したって言うじゃないか。ここにきて損したよ。来る必要なんてなかったんだ。俺はあっちと結婚することにしたよ。本当に金はすぐに送り返すつもりでいたんだ。メイを取り戻す必要もなくなったからな。それをメイが急にやってきて警察に言うとか言い出すから、仕方なくここに謝りにきてやったわけだ。なあ、もうこれでいいだろう。警察には余計なこと言うんじゃないぞ」  荒戸は事務机を蹴ると、頭を掻き逃げるように事務所から出ていった。階段を降りながらなんども壁をたたいては、意味のないうなり声を発していた。 「待ちなさいよ、あんた」  光子は夢から覚めたように声をあげると、荒戸を追いかけようとしたが須田は腕をつかんで引き留めた。 「どうしてです。これでいいんですか。あいつのせいで、うちの印刷所は潰れるところだったんですよ。仁さんも仁さんだ。一発くらい殴ってやりなさいよ」 「よかった。助かったんですよ」  須田は怒ることが理解できないように、ふかく息を吐きだすとしみじみと言った。光子は安堵した須田をみると、それ以上もなにも言うことができなかった。 「わたしのことで本当に申し訳ございませんでした」  メイはみんなに向ってもう一度頭をさげた。メイと一緒に大和も頭をさげていた。 「いや、とにかく無事でよかった。小川さんも帰って来たし、お金も帰って来た。もと婚約者との問題も片付いた。言うことがない。よかった、よかった」  須田は満面の笑顔で小さく頷きながらみんなの顔を見ていた。  メイが戻ってきた。また一緒に暮らすことが出来る。一緒にご飯を食べて、日常のなんということもない会話をする。朝はおはようと挨拶をして、夜はおやすみと言って眠りにつく。机を並べて働くことだって続けられる。やがて、メイのお腹が大きくなって働けなくなればゆっくりと産休をとらせてあげるつもりだ。そして子供が生まれたら、育児を手伝ってあげよう。子育ての心配がないように手を貸してあげるんだ。いつか、もしいつか、メイの心が向いてくれたなら、そのときは喜んで家族になってあげよう。須田は甘い妄想をひろげながら、その想いを慌てて否定した。須田は気がついていた。亡き妻、涼子への想いをただメイに重ねているだけだと。けっしてメイをメイとして愛しているわけではないのだと。 「みなさんのご報告したいことがあるんです」  メイが恥ずかしそうに言うと、横に立っていた大和がメイの手をにぎった。 大和は緊張したように直立不動の格好で立つと、呼吸を整えるように深呼吸を繰り返した。 「俺、メイと結婚することにしたんだ。実はメイはあの男から逃れるために俺の家に隠れていたんだ。それにもともと、ここに就職するきっかけになったのも俺なんだ。SNSで知り合って、こっちで仕事を探しているっていうからうちの印刷所で制作のできる人を探しているって話をしたからやってきたんだよ。そのときはもちろんメイが妊娠しているなんて知らなかったんだけど」 「印刷所を見にきたときたまたま仁さんに声をかけられて、俊也くんに変な迷惑をかけたら悪いと思ってチラシを見たって嘘をついてしまったんです」  SNSって何だ、と須田は思ったが聞かなかった。それよりも大和とメイが結婚をするという事実に動揺してうまく受け止められないでいた。 「昨日、俊也くんからプロポーズされたんです。お腹の子供も自分の子供として育ててくれると言ってくれて……」  メイは上目づかいで大和を見つめると恥ずかしそうに頬をそめた。 「それなら最初から仁さんの家で暮らさないで、大和くんの家で暮らせばいいのに」  光子は不思議そうに聞いた。 「だって、荒戸がやってくるまで俊也くんのことただの友達って思っていたから、あの男にふたたび結婚を迫られて逃げ場のない私に自分の家に来るように言ってくれたときから、彼のことを特別な目でみるようになったんです」  メイの甘えたような言い方に、光子は「ふうん」と言っただけだった。 「おめでとう。そうなんだ……。結婚するんだね」  須田はひきつりながら言うと、崩れるように椅子に腰を沈めた。  階段を軽々と駆けのぼってくる足音が聞こえたかと思うと、陽平が元気に飛び込んできた。息を切らせながらランドセルを背中から降ろすと床に投げた。 「母ちゃん、今日、算数のテストで九十八点とったよ。だから今日の夜はハンバーグにしてくれよ」 「すごいじゃない。がんばったね。今日は特大のハンバーグをつくらないとね」 「やった」陽平は飛び跳ねると、大和の腕をつかんで揺らせた。「ねえ、ねえ、キャッチボールをしようよ。たまにはいいでしょう」 「おお、いいな」  大和は須田をみてかるく頭をさげると、陽平の両腋のしたに手を入れて持ちあげた。陽平は大きな口を開けて嬉しそうに笑いだした。須田はそんな陽平の笑顔につられて、いつの間にか大きな声をあげて一緒に笑い始めていた。  春になり、来月にはメイは子供を産む。籍をいれた大和はこれまで以上に仕事をがんばっている。給与の前借りをすることもなくなり、これまでのように空地の壁にボールを投げて遊んでいるようなこともなくなった。  印刷所は相変わらず潰れそうだが、最近、メイが休暇の間自宅で作った須田印刷所のホームページがきっかけとなって、将棋倶楽部をはじめ、さまざまな取引先から「うちのホームページも作ってくれ」と依頼されるようになって仕事がひろがってきた。まだまだ印刷所を立て直すほどの儲けにはならなかったが、微かに明るい未来が開けてきたような気がしていた。  光子はこの頃機嫌がよかった。陽平が学校帰りにあまり印刷所に寄らなくなったからだ。子供が来なくなったというのが嬉しいというのは変かもしれないが、それは陽平にようやく友達ができたからで、その友達と学校帰りに毎日のように遊んでいるからだった。  金澤は相変わらず無口で黙々と働いている。たとえ寡黙であったとしても印刷機が軽やかに動いている音を聞いていると、なにも態度に表さなくても満足している様子が伝わってくる。  須田はふたりから名付け親を頼まれ必死に考えていた。男の子ならまわりから慕われるような人になるように『徳』、女の子なら誰からも愛され、誰をも愛する人になるように『愛』、とつけようかと思っていたがまだ迷っていた。  いまも夜になると須田は仏壇のまえに座り、亡き妻の涼子の写真をながめながら手を合わせ語りかけていた。 「ぼくらに子供はできなかったけど、今度、孫ができることになったよ。まだ若いのにお爺ちゃんだなんておかしいけどな」  須田は時間のたつのも忘れ涼子の写真をいつまでも見つめ続けている。メイはすでに育てあげた我が子のような存在になっていた。  生前、諒子が生れてくるはずの赤ん坊用のために編んださまざまな衣類を、大和とメイの夫婦にあげようと須田は思って整理していた。  もうじき子供がうまれる。きっと諒子の編んだ服をよろこんで着てくれることだろう。                   了
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