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楚々奔放
理解することを諦めたのか、トト所長が再度キララさんの腕を掴みラボから廊下へと身体を向かわせる。
「お前らと違って俺は“誰かさん”がサボってる分お仕事が忙しいもんで帰りますわ。孤独で優秀な科学者の繊細な心情はお前らには分からんか。ほなさいならー。」
その気怠げな一言を聞いたヨノマリアさんの顔から笑顔が一瞬消えるが瞬きするうちにいつもの優しそうな表情へ戻る。広角が上がり弧を描いたその口が開く。
「トト所長。サボってる方がいるって本当かしら?それなら所長代理としてその方を注意しなくてはいけませんね。教えていただけるかしら?
そうそう。その事とは全く関係のない事ですけれど所長が今取り組んでいらっしゃる新規の痕跡生物の配合比の件で私の見解を聞いていただいてもよろしくて?
まず細部形成度と凝縮度について。Pill03a2−8cに対してWar00H+02bの量が多すぎるんじゃないかしら?2:3.4で配合したほうが数値が向上すると思うのですけれど?それに反応実験をしたいのなら“培養”の一握の破片よりも“木々の紋章”の一握の破片の方がより早く正確なデータが得られるはずよ。手配はしておいたから今日にでも届くはず。怠惰で無知な人間なので詳しいことは分からないけれど。あら、素人質問でゴメンナサイね。」
笑顔で突き付ける正論の銃口。それを食らったトト所長の顔はみるみるうちに活力が奪われ顔色が悪くなっていく。そんなトト所長を助けるかのように研究室入口のノック音が鳴った。
「わしん所の所長来とるかー?」
深緑の髪色をしたその女性は片側を高くまで、反対側へ髪を流している。年齢は40代くらいだろうか。部屋の空気が一瞬で張り詰めたことから偉い人だということはすぐに理解した。その女性は項垂れているトト所長の肩を腕を乗せると肩を揺すりながら話し出す。
「まーたペリドに言い負かされてウジウジしとるのか?曲がりなりにもここの所長なんじゃからシャキッっとしんさい。」
「あら一位さん。その様子だとお二人を迎えに来たのかしら?」
「そうじゃ。不破がおらんようなった思うたら次は所長まで消えてしもうたからのぉ。まぁいつものことじゃけどな。」
「一位先輩、お疲れ様です!」
リリーさんが緊張気味に声を張ってその人へと挨拶をする。あのリリーさんが変なあだ名じゃなくてちゃんと名前を呼んでいる…。あの人は一体…。そんな考えを読み透かしたかのようにルルさんが隣の席に座って僕へ耳打ちをする。
「リリーが名前で呼んでてびっくりしたろ?あの人はな…トトと不破の研究室の研究員やってる一位麗美さんだ。一言で言うとそうだな…九麓聡さん研究員verって感じか?少しタイプは違うけどな。」
「折角ですし一杯いかがです?」
「一杯いかがってのぅ…そがいなことゆうとる場合じゃなかろうが…全く。ええか?ペリドには色々世話んなっとるし、"この"研究スタイルにはわしも納得しとる。じゃけど研究員共の勤務時間中の逃げ場になってはいけん。あんたもまだ所長代理ゆう立場なんじゃからそこんところはキッチリとせにゃあいけん。……まぁ折角じゃし一杯は貰うていこうかの。ほら!所長も不破も座りんさい。」
一位さんの一言で二人が…特にリリーさんが忙しなく準備を始めた。
「あの人の識別番号はbtr:110103。つまり第6世代の人だ。そして痕跡索組換研究"初代所長"。その後にヨノマリアさんが入ってきて自分はサポートに回るって言って代理の座に就いた。その後にも色々とあったんだが今は一位さんのことだけ纏めて話すよ。
さっきリリーが"変"になった理由だけどな。一位さんにも"トップ先輩"っていうリリーネームは存在してたんだが、初対面でそう呼んだときにえらい怒られて一時間近く説教されたんだ。しかもその翌日に開催された能力を使わない生身の強さを測る柔道大会の決勝でリリーと一位さんがぶつかった。瞬く間に勝負は決して、勝ったのは一位さんだったんだがもう一度やるってごね出したリリーを見て
『仕方ないのぅ……まぁええじゃろ。後輩を育てるんも先輩の仕事じゃけぇの』
って応えて、リリーに十連敗を与えて高笑いしながら帰っていったっていう伝説を持つ人なんだよ……。」
その場には居合わせなかったけど脳内再生余裕だ…。
「だけど元々トレイス体の密着度が低いらしくて正暦保全者にはならなかったらしい。最近も偏頭痛が頻繁に起こるとかなんとかで役職を持たない一研究員になったって訳だ。俺の先輩で星さんって人がいるんだけど、その人のフクツ…治療系の能力使っても治らなかったからこっちもトレイス体の問題じゃないかって言われてたな。」
「研究員の方って方言と気が強い女性しかいないんですか…?」
「あれ、知らなかったのか?気が強いかどうかは置いといて研究員の九割は女の人だぞ?でもみんなお茶会には興味無いみたいでこの部屋に来るのはトトか不破か俺たちぐらいだけどな。そういう意味でもヨノマリアさんは異質な存在なんだよ。」
一位さんに励まされて少しだけ元気になったトト所長が不破さん達と一緒に自分たちの研究室へ帰っていった。ルルさんからの別れの言葉を受けたトト所長が背中を向けたまま頭に付いた触覚をぺたぺたと左右へ振って寂しく答えていた。去り行くトト所長の悲しく窄まった背中を見てルルさんが呟く。
「トト、あまりにも哀れだな。その万能さを買われてヨノマリアさんに捕まったばっかりに…。」
「何、流々川ちゃん?言いたいことがあるならはっきり言いなさいね?」
「いえ、言いたいことなど何一つないです。」
そう答えたルルさんの大きな体もまたトト所長のように萎縮して不破さん並に小さくなっていた。元いた四人に戻りお茶会が再開される。ヨノマリアさんを警戒しながら僕にだけ聞こえるぎりぎりの声で耳打ちする。
「さっき来たのはトト・ゲブラハート。この痕跡索組換研究所の“新”所長だ。」
「やっぱり最近就任されたんですね。さっきのシャオリンさんとのやり取りでもそういうやり取りがあったので気になってました。
…じゃあヨノマリアさんは所長の座から降ろされたってことです…よね?でも今のやり取りの感じだと知識やマネジメント能力みたいなのはヨノマリアさんの方が高いように感じましたけど…。」
ルルさんは眉に皺を寄せるともう一段階声を落として話す。
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