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保全戦闘と小鹿
「二人共、こちらへ。」
凛とした声が僕等を呼ぶ。二人と共に声の元へ向かうと九歳くらいの女の子がいた。相対するその子はその年齢に似つかわしく無い厳格な空気を漂わせている。
「九麓聡さん。今回の正暦分岐点は何処ですか?」
「ターニングポイントは2004年12月13日、場所はロシア。エピソード名は“悪魔の1ダース”。21分後にレコーディング開始よ。それで…その子は誰かしら?」
女の子がこちらを冷たく一瞥する。首から下げられたプレートには“九麓聡小鹿”と書かれている。
「ぼ、私は…」
「リリーが説明するね!この子は新人正暦保全者の箱嵜貉ちゃんで愛称はボクシー!リリー達と一緒にレコーディング入ることになったのさ。“バンビ”ちゃんが心配しなくても会長にはとっくの昔に許可取ってるよー!」
腕で大きく丸を描くリリーさん。許可とやらは今さっき取ってたような…。九麓聡さんは呆れたような顔を浮かべ、もういいわと言わんばかりに手を払っていた。
この空間の側壁に沿うように置かれた卵型の装置。恐らく僕がここまで乗ってきた移動卵殻と呼ばれたものと同じ様なものだろうか。それに乗り込むと同じような音声が鳴る。
『識別番号確認。游咏魚の水槽捕捉。移動卵殻発進します。』
移動卵殻は何処かへ向かって動き出す。機内にリリーさんの明るい声が充満している。ルルさんは安堵の溜息を漏らすとリリーさんの他愛ない雑談を遮って口を開いた。
「さっきは焦ってあんな形になって悪かったな。不特定多数がいるところであんまり素体時の記憶の話はしない方がいいぞ。みんな色々あったからバートンテイルに流れ着いたわけだしな。箱嵜が気にしないってんなら別に構わないがその情報を悪用するやつがいるかもしれないし忠告だけはしとくな。まぁ、正暦保全者にそんなやつはいないと思いたいが…。」
知らなかった…。思わず口を両手で塞ぐ。ルルさんは何か言いたげな顔をしているが口を開いては閉じてを繰り返している。
「…こんなこと話しておいてあれなんだけどな…あの…嫌なら答えなくてもいいんだぞ?さっきの話…つまりその…素体が天草四郎って本当なのか?」
「誰それ?リリー知らないけど有名なのー?」
口を抑えていた両手をどかしてそれに答える。別に答えたところで僕にとって不都合なことは無いし。
「ルルさんが思い描いている人物と合致するかは分からないですけど、確かに僕は天草四郎です。って言っても僕を知っている人なんて天草の地域の中でもごく僅かだと思いますけど…。」
「いや普通に有名なんだってば!教科書…の知識がトレイス体に組み込まれてるかは微妙だな…あー…歴史教育って言えば分かるか?その中で天草四郎の名前は必ずと言っていいほど出てくる。まぁ深くは教わらなかったけどな。」
「はぁ…」
「ボクシーちゃんめっちゃ微妙な表情してんじゃん。リリー達を騙そうとしてルル嘘ついてるんじゃないの?」
「クソ…何とかして証明したいがこれ以上箱嵜の素体について誰かに話すわけにもいかないし…。…もういいわ。俺の話は本当っていう不本意な前提で話を続けるが、天草四郎っていうことにも驚きだが何よりそんな昔の素体の正暦保全者が出てきた事自体が珍しい…っていうか正暦保全協会で初めてなんじゃないか?島原天草一揆っていうと確か1700年くらいか?」
「寛永14年…えーっと1637年ですね。」
「へぇー!かなり前だねー!…本当ならね。」
「リリーさんまで僕を疑うんですか!?」
「冗談冗談!ボクシーちゃんの話は信じてるよ。…私の隣りに座ってる大っきい嘘つきくんは別にしてね。」
ルルさんは何かを諦めたように目を閉じた。
「この子は置いとこう!ねぇボクシーちゃん!リリー達に何か質問とかないのー?」
漸くちゃんとした会話に戻ると思い一息ついてからずっと抱いていた疑問をぶつける。
「さっきから会話の端々に出るレコーディングっていうのは一体何なんですか?」
話そうとするリリーさんの口をルルさんが抑え付け僕の質問に答える。
「リリーが話すと直ぐに脇道に迷い込むから俺が説明する。保全戦闘っていうのは“現代、そして未来の行く末を決める歴史の大きな分岐点”、正暦分岐点と呼ばれる記録を壊変しようと暗躍する壊変者と呼ばれる敵からその記録を守ることを言うんだ。
人は生きているその全ての場面を死と隣合わせで生きてる。事故、殺人、不運の積み重ね。雷や隕石が直撃してなんてこともあるかも知れない。しかし幸運にも生き残り、後に世界のうねりを大きく変えた彼らのことを要保護記録者と呼ぶんだ。
記録を守るというよりも、その要保護記録者を守りきればOKって感じだな。たとえ保全戦闘に巻き込まれて記録の中の住人が命を落としてしまったとしても、その一人さえ生き残っていれば後から復元することは可能だ。だが記録の損傷が大きくなればなるほど復元に時間が掛かり、それだけ六麓聡さん達の仕事が制限される訳だから無闇に壊したり命を奪ったりしないには越したことは無いけどな。」
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