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游咏魚と水槽
「正暦分岐点っていうと教科書に載るような変革だったり、後世に残るような発明が生まれた日なんて思いがちだが全員が全員そうという訳じゃない。寧ろそこに至るまでに関わった人に起こった小さな出来事の方が多いんだ。例えば“普段なら一杯しか飲まないコーヒーを二杯飲んだ”とか“隣町まで行った帰り道にいつもとは違う道を使った”とかな。
そして壊変者の壊変行為を見つけてくれるのが、さっき話した九麓聡さんや下のフロアにいる正暦修復者と呼ばれる人達だ。元々は正暦修復者も俺らと同じように正暦保全者って呼ばれてたんだけどいつからか差別化のためにそう呼ばれだしたんだ。
正暦修復者の役割は壊変行為の巡警の他にも保全戦闘中の俺達のサポートや壊された記録の修整・保護などがある。さっき見た水槽の中にいくつか青くなってるものがあっただろ?あれなんかが保護済みの記録だったりするわけだ。記録に潜って戦闘に入ることはないから俺達とは対になる存在だな。」
「そういや聞こうと思って忘れてたけど箱嵜は何歳なんだ?見たところ20歳は超えてなさそうだが…。」
会長と蜂浦さんと出会ったときのことを思い出す。確かトレイス体ではプラス一日って言ってたような…。そのことをルルさんに伝える。
「そっか。じゃあ消失時点では17歳でトレイス体で17歳プラス1日ってことか、珍しいな。
いやさ、俺達の間でもまだ良く分かってないんだが、現世の体がトレイス体に痕跡転換される中で痕跡索が素体の意思を汲み取ってその年齢がベストだと思ったトレイス体が出来上がる仕組みらしいんだよ。一度決まったらそこから何年経ってもその姿のまま。要するに不老不死の身体って訳だな。
因みに俺は素体もトレイス体も28、リリーは素体は17、トレイス体はプラス10で27だ。確かそうだったよな?」
「ちょっと何で勝手に言うの!?信じらんない!」
そう言ってリリーさんはルルさんの肩を容赦無く殴り続けている。
「あの…リリーさん?リリーさんからも新人の箱嵜くんに正暦分岐点のタメになるお話を頂けるとありがたいのですが…」
「ルルのお願いとあれば仕方ない。聡明な私も特別授業の講師をしてあげよう!」
殴る手を止め、満面の笑みで答えるリリーさん。
「痕跡索については会長んとこの蜜蜂くんからもう聞いたよね?游咏魚に記録されてる正暦分岐点を映した世界もその痕跡索で作られてるんだけど、痕跡索っていうのは一匹一匹微妙に特性や性質が違うわけなのさ。
それでね、その世界を構成している痕跡索と全然違う性質の痕跡索で作られたトレイス体でその世界に入っちゃうと元々中に住んでた痕跡索達と混ざっちゃってその記録が変わっちゃう可能性があるって訳なの。だから正暦分岐点によって保全戦闘出来る正暦保全者は限られてるんだよー。私とルルはトレイス体の性質が似てるからよく一緒に組まされるんだー。そう、人は私達をこう呼ぶ、“ルリアンズ”と!」
「俺はそう呼ばれるの嫌なんだけど…。」
肩を組まれたルルさんは何もかも諦め壁にもたれ掛かりながら僅かばかりの意見を溢す。そんなルルさんの背中を笑いながら叩いているリリーさんが何か思い出したように手を挙げる。
「はい!補足情報です!トレイス体の話に戻るけど、保全戦闘を重ねていくと体を構成している痕跡索達が圧縮されていくのね?その空いたスペースにまた新しい痕跡索達が入って圧縮されての繰り返しなのさ。そうするとその子達が増えた分性質の情報も増えるわけだから、記録の容量いっぱいいっぱいになって記録の中に一人しか入れなくなっちゃうの。つまり強くなるほど一人で戦わなきゃいけなくなるってわけ。強い者は孤高に生きるしかないのだよボクシー…。
まっ!二、三人で保全戦闘することの方が圧倒的に多いからそこはまだ心配することはないぞ私の可愛い後輩ボクシーよ。」
『レコードボックス到着』
賑やかな機内に無機質な音声が鳴ると扉が開いて二人は出て行く。僕もその後を追った。
これは──。
先程見上げていた水槽の中にいた。大きさは3m四方くらいだろうか。全身が濡れている感覚があるのに、肌に触れるとさらりと乾いていることからそれは感覚上のみの事実ということを知る。
その中央には一匹の魚が静かに泳いでいた。海の魚というよりも錦鯉のような見た目をしている。真白な身体に浮かぶ色鮮やかな模様。しかし模様と思っていたそれが動き出す。
よく見ると映像が投影されているようだった。数人が集まって何かをしている?動き回る魚のせいでそれをはっきりと捉えることはできない。
「この場所が游咏魚の水槽。そしてこいつが正暦分岐点の記録の入口、游咏魚だ。」
「バンビちゃーーーん!」
僕達を横目にリリーさんは下にいる九麓聡さんへ一所懸命に手を振っていた。下のフロアを見ると彼女はこちらを一瞥して直ぐにデスクへ視線を落とす。
「あれれ?バンビちゃん私達のこと見えなかったのかな?」
「いや、しっかり見てたな。見てた上で、だな。」
『二人共…いや三人だったわね。正暦分岐点の説明をするわ。今回の壊変者は二人。先日正暦分岐点1297.03.01、エピソード名“桜が咲く頃に”を壊変した要注意人物よ。貴方達なら大丈夫でしょうけど、新人もいることだし油断しないことね。』
どこからか九麓聡さんの声が響く。それに続くように無機質な音声が流れ始める。
『正暦分岐点2004.12.13。エピソード名“悪魔の1ダース”。
レコードボックス内痕跡索解析中…。解析完了。
流々川留、リリー・クラウスト、箱嵜貉、識別番号btr:6601010、btr:6696110、btr:8539647確認。
正暦保全者三名転送開始。』
濡れない水が身体の深くへ浸透していくような感覚を抱く。
身体の中が満たされたとき意識はその中へと溶け込んだ。
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