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【第一部】九章 「絵の描き方」
——少女との共同生活が始まって一か月が経った。
僕は、久しぶりに絵を描いていた。
あの子がここに来てからというもの、何だかバタバタしていて、絵を描くことをすっかり忘れてしまっていた。
今日は、家の窓から見えるすぐそこの丘に行き、そこから見た灯台とその周りの景色を写生している。
描いている間に集中力が途切れることもある。大体いつも一時間くらいは集中出来るのだが、今日は五分も持たずに、絵とは違うことを考え始めていることに気がついた。
それはやはり、少女のことだった。
僕は、あの子のように大変な苦難を経験したことはない。
ごく普通の家庭で、ごく普通に育てられた。
十八歳までは故郷の街にある神学校に通った。
僕はあまり神とか信仰に対して興味を持つことは出来なかったけど、学校生活自体は楽しめていたように思う。
両親は、卒業後は神父になってほしいと考えているようだったけど、僕にはずっと、誰にも話していない小さな夢……というほどでもないけど、ボンヤリとした願望のようなものがあった。
それは「海の近くに住んで、暮らしてみたい」というものだ。
そんな時に、灯台の管理人の仕事に空きがあることを街で聞き、僕は思い切って父親に相談した。
人里から離れた場所であるため心配はされたが、父親は「お前は自分にとっての幸福が何なのかよく分かっている。それは何よりも重要なことだ」と言って、賛成してくれた。
人が焚火の炎を見ていると心が安らぐように、僕は海を見ているだけで、自分の心が満たされることを知っていた。
そして灯台の灯は、僕にとっては焚火の炎だった。
僕は、理解ある両親のもとで育てられたことが、何よりも今の生活の基盤となっていることを知った。
特に父親はいつも、僕のことを一人の自立した人間として扱ってくれた。
神学校ではそんなことは教わらないはずなので、父の元々持つ気質かもしれないが、父はそういった理念を持っていた。
そして僕は、そのおかげで自分の道を自由に選べたのだと思う。
——そんなことを考えているうちに、少女が家から出てきて、こちらに向かって歩いてきた。
こちらまで来ると、僕の隣に座り、スケッチブックを覗き込んだ。
隣で誰かに見られながら絵を描くというのは何年ぶりのことだろうか……
「見てて楽しい?」と尋ねると、彼女はコクンと頷いた。「自分で描いたことはないの?」
「少しだけ」
「描いてみるかい?」
そう尋ねると、満更でもない様子を見せたので、僕は色えんぴつのセットと、新品のスケッチブックを渡した。
「そのスケッチブックはあげるよ。色えんぴつは僕の机のひきだしにいつもあるから、好きな時に好きに使っていいから」
僕がそう言うと少女は「ありがとう」と言い、少しだけ笑った。
それは、この子がここに来てからの間、僕が切に願っていることだった。
そうか。この子は笑うとこんな顔になるのか。
僕はこのスケッチブックと色えんぴつが、今までで一番役に立ったような気がした。
——人は一度、大きな闇に食べられたとしても、ちゃんと這い出ることが出来る。
僕は以前この子の言った。「生きていてはいけない人間もいる」という言葉に心の闇を感じていたが、その感覚は間違っていたのかもしれない。
実はそれは、この子の強さであり、真っ直ぐに生き抜こうとする生命力の一部なのかもしれない。
今そんな風に、僕の中での解釈が変わった瞬間だった。
今目の前にいる少女は、スケッチブックをその小さな左手で支え、もう一方の手にえんぴつを持ち、灯台の輪郭を一生懸命に描いていた。
この子がどんな絵を描くのか、僕は知りたかった。
風が吹いて、足元の草を揺らす。
春が、もうすぐそこに訪れていた。
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