【第一部】十七章 「満月の夜に彼女が死んだ理由」

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【第一部】十七章 「満月の夜に彼女が死んだ理由」

 満月が昇っていた。その光が水面で真っ直ぐに揺れながら道を作っている。小舟はその道に沿うようにして、ある場所に向かっている。  僕たちが居た灯台の灯りは、もうとうに見えなくなってしまい、少女は少し前から、隣で眠っている。  僕は一体、こんなところで何をしているのだろう……という感覚が不意にやって来たが、それはこの子だって同じだろう。  いや、この子はもうずっと前からそんな気持ちなのかもしれない。まだ十歳なのに……本当に壮絶な人生だ。  大人をフライパンで殴ることが出来るだなんて、普通の生活をしてた十歳の子が、そんなこと出来るだろうか。  多分、普通じゃなかったんだろう……この子について僕が知っていることなんて、ほんの一部に過ぎないのだろうから。  もしあの時僕が止めなかったら、あの男を殺すつもりだったのだろうか……複雑な気分だ。助けられたのは事実だけど、この子はあまりにも気を張りすぎているように思える。  気がつくと僕は無意識に、眠っている少女の背中をゆっくりトントンと、子供を寝かしつける母親のように、手を一定のリズムで動かしていた。  僕はふと思う。そういえば、三年前。彼女が亡くなった夜も、こんな、満月の夜だった。  ——結婚したら女の子が欲しいと、彼女はよく話していた。彼女がまだ生きているうちにこの子が灯台に流れ着いていたら、ある意味で僕たちは家族のようになれたのかもしれない。いや、そうじゃなくても、きっと僕たちは結婚していただろうし、子供だって作ったかもしれない。  僕と彼女は、とても似ていた。表面的な好き嫌いはもちろん異なっていたが、根本的な部分が本当によく似ていた。  人は誰であれ、仮面をかぶって生きている。長い時間を生きる途中で、当たり前のように「他人に見せる自分」と「他人には見せない自分」が作られてゆく。  僕は初めて彼女と話した時、彼女の付けていた仮面に、今までにない居心地の良さを感じた。  運命の人に出会うと、本当の自分をさらけ出せると言う。それは半分は正しいが、半分は間違っている。  人は、他人の仮面を見た時に、その人がどういう理由でその仮面を付けたのか直感的に判断する。その感覚が正しいのか間違っているのかとは関係なく、ただ、そのようにして人の印象というものは、一人一人の中で勝手に、都合よく作られていく。  だから僕が、彼女の仮面に対して居心地の良さを感じたのも、ある意味僕の、都合の良い解釈だったのかもしれない。  だけど、それでも僕は彼女の仮面を見た時に、仮面の下の彼女が無意識に恐れている何かと、無意識に抱いている願望が、僕の抱えているものと同じものであると感じた。その仮面を選んだ事情が、手に取るように伝わって来る気がした。  それは、分かりやすくいうと恥ずかしいのだが、人から嫌われたくない。いや、自分が人から嫌われるような人間だと、認めたくない。  人から愛されなければ「私」は幸せになれない。だから、人から愛させるような特別な人間でありたい。そんな思いであったと思う。  そういった人がつける、いわゆる「良い人」の仮面であった。  今の僕はそうではないが、当時の僕はまさにそんな人間だった。そして、彼女もまた僕と同じ仮面を付けていた。  そして最も大切なことは、仮面の下の素顔だけが、その人ではないということである。「仮面」もまた、同じくらい、もしくはある場面においては「素顔」以上に重要な意味を持ち、生活に理由をもたらしている。  つまり僕は、彼女の「素顔」も「仮面」も、どちらも同じくらい愛していた。なぜならそれは表裏一体で、それ以上分けることの出来ない最小単位だったからだ。  ——僕達は知り合ってから、すぐに付き合ったわけではなかった。知人を交えて会うことはあったが、初めて二人だけで会ったのは、出会ってから約二か月が経った時だった。  僕は彼女に対しやはり好意を持っていたし、どこか似たような人間性を感じていたこともあり、あまり人には話さないことも話した。  その時彼女に話したのは、僕が何年も持ち歩いているある青春小説の話だった。彼女はその小説は知っているが読んだことはないと言った。  僕は彼女に勧めるつもりなどは全くなく、ただその小説が自分にとってとても大切なものであるという話をしたかっただけだった。  そういう、自分の内面を晒すような話をしたいと、相手にそう思わせる雰囲気が、彼女にはあった。僕はそれに甘えたかったのだと思う。  彼女は一度も口を挟まずに、わざとらしく笑みを作ることもなく、静かに僕の話を最後まで聞いてくれた。  そして、また後日会った時、彼女の鞄の中に、僕の話したその小説がチラリと見えた。  僕がどうしたのかと尋ねると、図書館で借りたのだと言った。  僕の話を聞いて、読みたいと思ったのか、それとも僕のことを知りたいと思ってくれたのか、それは分からないけれど、少なくとも彼女はわざわざ図書館に行きその本を借りた。  そしてそれを僕に言うこともなく、僕の知らないところで、ただ読んでいた。  それが、僕が彼女を好きになった理由だった。  その日のうちに僕は彼女に告白をし、その半年後には僕たちは一緒に住み始めた。  そう、あの灯台下の家で。  それから彼女が死ぬまでの五年間。僕たちは一度も喧嘩をしなかった。  時々どちらかが不機嫌になることはあったが、そんな時は、そうでない方が訳を聞き、知らずに傷つけてしまっていたことについて謝る。それだけ。  僕も彼女も自分の都合で勝手に不機嫌になったり、相手に当たったりする人間ではないので、そういう時は何かしらのすれ違いが起きている時だった。  それはただそれだけのことであり、僕たちにとっては、喧嘩する理由にはなり得なかった。  それから。これは、信じられないことなんだけど僕は、なぜ彼女が死んだのか覚えていない。  本当に全く覚えていないんだ。  もしかしたら、もう一人の「仮面」をつけた僕、もしくは「素顔」の僕が、その出来事に蓋をしてしまったのかもしれない。僕が眠ったり、絵を描いたりしている間にそっと、僕にバレないように。  それから僕は友人に会うことを止め、街に行くことも必要最低限となり、あの灯台で隠居生活を送るようになった。  そうして「良い人」であるための仮面は、僕には必要なくなった。  ——今。隣で眠っているこの子は、初めて会った時からその仮面は付けていなかった。  僕は「生きていてはいけない人間もいる」と言った、この子の言葉を思い出し「僕もそう思うよ」と一人呟いた。  眠っている少女の目から涙が伝った。母親の夢でも見ているのだろうか。
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