【第一部】十八章 「花の名前」

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【第一部】十八章 「花の名前」

 翌朝。少女が目覚めるよりも前に、僕は目的地近くの入り江に着岸していた。そこは、あの灯台から数十キロメートル離れた、国の北西辺りの海岸だった。僕が目指しているのは、祖父の別荘である。  祖父はもう亡くなっているので、正確には今は父の所有となっているが、父はもう何年もそこを使っていないから、空き家同然となっている筈だった。  少女は具合悪そうに目を覚ます。そりゃそうだ。こんなグラグラと揺れる小舟の上で熟睡など出来るわけない。  僕が「大丈夫?」と尋ねると、彼女は「吐きそう」と答えた。 「ひとまずもう岸には着いたから、少し休もう」 「夜通しずっと、漕いでたの?」 「うん。なるべく暗いうちに着いておきたかったから」 「ありがとう」と彼女は言う。  それから彼女の気分が落ち着くまで少しの間、僕たちは入り江近くの洞窟で休憩をした。それから、今度こそこの小舟が発見されてはマズいので、僕は彼女と一緒に小舟を押し、海辺からはすぐに見つからない草むらへ隠した。  それから僕たちは、祖父の別荘へ向けて歩き始めた。  その道すがら、花を見つけると彼女は「ヒメジョオン、ノヂシャ、キュウリグサ、オオイヌノフグリ」と、おそらく花の名前であろう言葉を口にしていた。 「詳しいね」と僕が言うと、「お母さんに教わったから」と彼女は言った。  ——二十分も歩かない内に僕たちは、目的地である祖父の別荘に着いた。僕は一睡もしていないし、彼女だって寝たと言っても疲れは取れていないだろうから、二人とも、もう疲労困憊だった。  別荘の中は案の定埃まみれで、木の湿った匂いがした。僕達は今からここを掃除する気力など当然残っておらず、ひとまず自分たちが寝転がれるスペースだけを簡単に掃除をして、そこに倒れ込んだ。 「やっと眠れる」 「ありがとう。お疲れ様……私たち大丈夫かな」 「大丈夫だよ。何とかなるさ」 「もう、犯罪者ってことかな? 二人とも」 「そうだね。多分……そういうことになるね」  そこで、少しの間沈黙が流れる。  そのまま眠っても良かったのかもしれないが、僕はこの子が心配だったし、何か声をかけるべきだと思い「起きたら、掃除しような」と言ってみる。  彼女は「前の家より広いね」と答える。 「確かにね……」と僕はほとんど無意識に答え、そのまま、深い眠りの底へと落ちて行った。
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