【第一部】二十章 「夜を駆ける」

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【第一部】二十章 「夜を駆ける」

 少女の家は父親、母親、そして彼女の三人で暮らしていたという。  彼女の父親は国の役人で、故郷では名の知れた人物だったそうだ。しかし彼には裏の顔があった。それは日常的に妻に対し暴力をふるうという一面であった。  少女の母親は「あの人がいないと私たちは貧乏になってしまうから」と言って別れようとはしなかったそうだ。しかしそれは単なる理由付けであり、本当は母親はただ父親に依存しているだけだった。  暴力を振るう時もあれば「すまなかった。もう二度と手はあげないから」という父親をいつも許し、そして翻弄されていた。  少女の故郷には争いごとも無く、平和な国ではあったが、国の役人として働いていた父親は、いつも国民の不満の吐口にされ、その度に困ったような笑顔を浮かべていたという。  ——そしてあの日。酷く酔った父親が帰って来た。  母親はふらついている父親を介抱しようとしていたが、父親は家に入るなり「なぜ俺の帰る時間に部屋が暖まっていないんだ!」と怒鳴り散らし、母親の顔をぶった。  少女もその音で目を覚まし、扉の隙間からその様子を覗いていた。  母親が「ごめんなさい」と謝ると父親は「いいからまず水を持って来い」と言った。  しかし母親は、殴られた恐怖で手が震えており、水を用意するのに手間取っていると父親は再び怒り、母親を張り倒した。そして転がった母親の腹を蹴り始めた。何度も何度も蹴り続けた。三発、四発、五発、どんどんと音は大きくなっていく。  少女は、このままでは母親が死んでしまうと思い、飛び出して父親の背中に飛び付いた。  父親は「お前も俺が嫌なんだろう!」と大きな声をあげ、少女を振り払うと、側にあった椅子を掴み少女の目の前で振り上げた。  その時だった。後ろから母親が父親に体当たりをした。  父親の手にあった椅子は、床に落ちて大きな音をたてた。そして、父親の脇腹から血が流れ始めた。母親は、父親の脇腹から包丁を抜くと、今度は背中に力一杯突き立てた。そしてついに父親は床に倒れ込んだ。  母親は少女の元へ這って行くと、抱き寄せ、そして「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も繰り返した。「お母さんにもっと勇気があれば、こんなことにはならなかった。もっとはやく逃げるべきだった」  そして少女はそこで、母親からある秘密を打ち明けられた。  実は父親と母親は夫婦ではなく、不倫関係であったというのだった。父親には他に本来の家庭があるのだと。そして国の役人である父親は、不倫が表沙汰になってしまうことを避けるために、少女の出生を国に申し出ていないとのことだった。  つまり、。  状況が状況なだけに、少女には十分に理解が追いつかなかったが、ただ。母親の言いたいことはこうだった。 「私は今この人を殺したことによって犯罪者となった。この先、犯罪者の娘として生きていくことはあなたにとって、大きな足かせになってしまうだろう。だけどあなたの存在は、この国には知られていない。だから今逃げなさい。もう会うことは出来ないけど、世界には、あなたのことを大切にしてくれる良い人が、たくさんいるから大丈夫」と。  少女は当然それを拒否した。嫌だと言った。どこに逃げればいいのか、一人でどうすればいいのか、何も分からないと。  そうごねる少女の手を引いて、母親は、裏口から家を飛び出した。人気のない暗い路地を、少女の手を力強く握り駆け抜けた。その手には、空気に触れて固まりつつある、父親の血液が付いていた。  ——島の南にある入り江に着くと母親は、海水で少女の手に付いた血をよく洗った。  そこには小舟が一艘あり、あれは父親の舟だと母親は少女に教えた。少女が生まれる前。まだ父親が優しく暴力も振るわなかった頃は、舟でよく沖に出ていたのだと、昔聞かされたことを少女は思い出した。 「まだ使えるはずだから、あれに乗って南に向かって。しばらくすると灯台の灯りが見えるから、そこを目指して進みなさい。がきっと、助けてくれるから」と、そう言った。  少女はずっと泣いていた。「そんなこと出来ない!」と言った。  すると母親は、少女の頬を強くぶち「言う通りにしなさい!」と怒鳴った。  少女が母親にぶたれたのは、この時が最初で最後だった。  そして「またすぐに会えるから」と言った。少女には、その言葉が本当でない事は分かったが、受け取るしかなかった。  少女はほとんど強制的に舟へ押し込まれ、海へと流された。泳いで岸に戻ることも出来たが、母親をこれ以上困らせることも出来ず、ただ言う通りにするしかなかった。小さくなっていく母親を見ながら、少女はずっと泣いていた。  そして、家を飛び出すとき、母親に着さされたコートのポケットには、疫病に侵され一つの島国が崩壊するまでを書いた、一冊の小説本が入っていた。
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