【第一部】二十一章 「深緑色の傘」

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【第一部】二十一章 「深緑色の傘」

   光の裏には闇があるというが、ある場合には、闇を隠すために闇を使うこともある。少女の告白はそんな人生の不条理を感じさせるものだった。ただ偶然。そこに生まれ落ちただけの命に、なぜそんな厳しい現実が用意されてなくてはいけないのだろうか。  この別荘に逃げて来て一週間が経過し、大掃除も終わり、あらかた必要な物は揃えることが出来ていた。そして僕は、これからのことを考えていた。  あの子の故郷が疫病の島でないということが確定し、あの子の母親は、まだ生きていることが分かった。しかしおそらく今はもう捕まってしまっているだろう。例えば僕が父親のフリをして、あの子を連れて、面会に行くことは出来るのかもしれない。けれども、城の役人を殺害したとなれば、母親はもう牢屋から出ることは出来ないだろうし、悪ければ死刑もある。  あの子は、どのくらいまで理解しているのだろうか……  分からないが、これから殺されてしまうかもしれない母親に会うことは、余計辛いのではないだろうか。きっとあの子は、僕が想像する以上に色々なことを理解し、そして受け入れようとしているのかもしれない。    ——「ただいま」  スケッチブックを抱えた少女が、外から帰ってくる。  僕はあまりに考え込んでいたので、つい返事するのを忘れてしまう。 「帰ったぞ!」と、彼女は僕の近くでもう一度、大きな声で言った。 「わっ! お、おかえり」と僕はびっくりして答える。 「どうかした?」 「いやいや、どうもしないよ。なに、今日は何を描いてきたの?」  彼女は僕の質問には答えず、握りしめた右手をこちらに差し出した。僕は彼女の顔をちらりと見やり、何かを手渡そうとしていることを理解する。僕は彼女の握りしめた手の下に、両手で水をすくうような形の手を差し出す。彼女が手を開くと、僕の手のひらに落ちてきた物はクルミだった。 「クルミかあ。どうしたのこれ?」 「いっぱい落ちてる場所見つけたんだ。これで、何か美味しいもの作れる?」 「そうだね。なんだろう、サラダにも使えるし、あと、鶏肉とかキノコとかと一緒に料理してもいけると思う」 「それ、食べたい」 「よし。じゃあ、食材を買いに行こうか」  というわけで僕たちは、街の市場まで晩御飯の材料その他諸々を、買いに行くことにした。  ——僕たちは祖父の別荘を出ると、海とは反対方向にある街の方へと歩き出した。  その道中、水路を泳いでいる鴨を見つけると少女は、不意に「ねえ。馬が泳いでるところ見たことある?」と聞いてきた。 「ないかな。馬って泳げるの?」と僕は聞き返す。 「泳げるよ。私一度だけ見たことがあって、ブルブルと鼻を鳴らしながら器用に泳ぐんだよ。なんかね、城で飼ってる馬が逃げ出して、近くの池に落っこちたんだって。私急いで友達を呼びに行ったんだけど、友達と戻った時にはもう引き上げられて、体を拭かれてるところだった」 「そうか、そりゃあ惜しかったね。でも馬が無事でよかったじゃないか」 「うん、そうだね」  と、こんな具合に僕たちは特に中身のない会話を交わしながら歩いた。しかし、まだ慣れない新居から街への順路。無意識で辿り着くことは出来ない。 「ここ曲がるんだったよね?」と、僕が言い。 「もう一つ先だよ」と彼女が答える。 「あ、そうだそうだ」と互いに確認しながら進まなければならなかった。その感覚は同時に、僕たちに新生活という新鮮な空気を、取り入れてもくれていた。  それにしても、僕は早く仕事を見つけなければいけない。まだしばらくは大丈夫だけど、この子も思ったよりも元気そうだから、あとはお金さえ安定させられれば、ひとまずはそれなりに何とか暮らしていけるだろう。  ——街に着くと、それほど人で賑わっていたわけではないが、通りにはたくさんの店が軒を連ねていた。服屋、酒屋、雑貨屋、食べもの屋、宝石屋など。灯台の方にあった街よりもこちらの方が、少し大きい街のようだ。少女はその中でも、傘屋に興味をそそられたようだった。店先には売り物の傘が、色とりどりに並んでいた。  彼女は美しい深緑色の傘を手に取り「広げてもいいかな?」と僕に尋ねる。 「ゆっくりね」と僕は答える。  ばっと広げた傘はとても大きく、彼女の体はすっぽりと包まれた。 「それなら全く濡れずに歩けそうだ」と僕は言う。 「この傘があれば、雨の日だって待ち遠しくなるね」そう言いながら彼女は、クルクルと回った。  僕は彼女のそんな姿を、出来ることなら彼女の母親にも見せてやりたいと思った。命がけで我が子を海に流した母親の判断が正しかったのかは分からないが、少なくとも彼女は、賭けに勝ったと考えて良いだろう。いまこうして、あなたの娘は元気なのだから。  少女は傘を閉じると、元の場所に置き「行こっか」と言った。  ——その後、僕たちは通りを抜け市場で食材を買い、家に帰る道中で、彼女の言ったクルミの落ちている場所に寄って、いくつかのクルミを拾って帰り、晩御飯にはクルミを使った何品かの料理を作って食べた。  サラダは予想通りの味に作れたが、その他は何とも微妙な仕上がりだった。彼女は満足そうだった。
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