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【第一部】二十三章 「骨髄」
「なっ、なんなんだ……」
腹より下は、何か鋭利なもので切断されたように、すっかりなくなっていた。切断面には骨の髄が見え、生臭い血の匂いが漂っている。しかもまだ意識があるようで、山羊の虚ろな目は、わずかに動いていた。
僕は嫌な予感がして、急いで扉を閉め鍵をかける。
「何だったの?」と少女は心配そうに僕に尋ねるが、僕はほとんど過呼吸のようになっており、すぐには答えられなかった。
「はぁ、はぁ、山羊だよ。死にかけの山羊だ」
「山羊? 私がさっきシーツを干した時には何も……」
「嫌な予感がするよ」
「きっとあの男だよ! あなたのことを撃とうとしたあの、使いの男」
「僕もあの男のことはよぎった。だけど、なぜこんな猟奇的なまねを? 僕らを捕まえるつもりなら普通、衛兵を連れてやってくるはずだ」
「ううん。私には、あいつがまともな人間には見えなかった。多分もっとどろどろしたものに覆われてて、自分が人とは違う特別な存在だと思い込んでいるような、きっとそんな奴だ」
なぜ彼女がそこまで、あの男の人間性について見抜けたのか、僕には分からなかったが、そういえば以前、灯台近くの浜辺で会ったあの老婆も、男が危険であるという話をしていたことを、僕は思い出す。
「じゃあ例えば、今はすぐ近くに潜んでて、僕たちが怖がってるのを楽しんでいる。そんな感じのことかな?」
「そんな感じだと思う」
「そうか……」
しかし男の拳銃は、あの時海に投げ捨ててきた。城の正式な職務として僕たちを追いかけているわけじゃないなら、新たな銃も支給されることはない。おそらく奴は今銃は持っていないはずだ。
だけど、どうすればいい。まるでケージに入れられた実験動物の気分だ。落ち着かない。動くことが危険でもあり、ここに立て篭もることもまた危険に思えた。
僕は全ての窓に鍵がかかっていることを確かめ、カーテンを閉めた。そして彼女の手を引いて階段の下まで連れていく。
「ひとまず様子を伺おう。今すぐは動かない方がいいと思う。僕は二階で武器になりそうな物を探してくるから、君はここで待ってて。ここなら扉からも窓からも離れてるから。もし何か異変があれば、大きな声で教えて」
「分かった」と彼女は言う。
さっきの切断された山羊を見せられて分かった。きっと彼女の言う通りだ。相手はまともじゃない。こっちだって覚悟を決めなくてはいけないということか。
——僕は階段を上がると、まだほとんど踏み入れてなかった、かつて父が書斎として使っていた部屋に入った。
そして父が使っていた机の前に立つ。今はこの父の別荘を、勝手に使わせてもらっている訳だが、それでもやはり、人の机の引き出しを勝手に開けるのには抵抗があり、今まで開けたことはなかった。
一段目を開けてみると、中身のないペンケースといくつかのクリップがあるだけだった。次は二段目を開けてみる。空だった。続いて三段目。中にはよく分からない書類が数枚入っているだけだった。
最後に四段目。他の引き出しよりも多少、高さが設けられている引き出しだ。開けると、中には大きな立方体のアルミ缶が入っていた。
僕はそれを手に取ると、机の上に置いた。蓋を開けると、中には日焼けした地図、コンパス、帽子、懐中電灯、そしてダガーナイフが入っていた。
「武器……あった」と思わず声が出た。
それは刃渡り約二十センチ以上はある本格的な両刃作りで、多少古びてはいるが、重量感のあるナイフだった。これなら十分に人を殺すことが出来るだろう。
一緒に入っていたホルダーにそのナイフを納め、腰に装着した。
しかし、いざ武器が見つかってしまうと、それはそれで戸惑ってしまう。確かに今、僕たちが追い詰められていることも、あの使いの男が危険であることも事実だろう。
だけど、僕にこのナイフで人を殺すことなんて出来るだろうか。例えばどうしようもなく追い詰められ、少女の命に関わるような事態となれば、アイツにこの刃を、突き立てることが出来るのだろうか。そう、例えば少女の母親のように。
その時だった。
「大変! 降りて来て!」と少女の呼ぶ声が下から聞こえた。
僕は父の書斎を飛び出し、階段を駆け下りる。
焦げくさい臭いと共に、立ち上がる大きな炎が僕の目に飛び込んできた。
「なっ⁉︎」
家の玄関辺りから火をつけられ、少しずつ燃え広がっているようだった。
「もうダメだよ! 逃げるしかないよ!」と少女は言う。
確かに家の中に水気のものはないから、消火することは不可能だ。いくら奴が外で待ち構えているとはいえ、僕たちに残された選択肢は、家から飛び出すという一択だけだった。
しかし奴はおそらく、入り口を燃やすことによって、僕たちを窓から逃げさせようとしているのだろう。いま二人で窓から飛び出せば奴の思う壺だ。
「いいかい? よく聞いて。僕は今からそこの窓から飛び出して、男を引きつける。君は三十秒数えてから出てくるんだ。向こうの壁と床の角に顔を近づけて浅く呼吸をするんだよ。これくらいの火ならまだしばらく大丈夫だから」
少女は涙目になっていたが、泣かないよう我慢しているようだった。
「分かった。無事でね。後でね」と少女は答える。
「うん。後で小舟のところで会おう」
僕は窓から飛び出した。
——やはりそこには、松明を手に持った、あの使いの男が立っていた。
「お久しぶりですね。まだそんなに燃えていないのに、もう飛び出すのですね」と男は楽しそうに笑っている。
それはまさに、自分の趣味を楽しむ人間の顔であった。
その顔を見た瞬間。僕は自分の心が冷たくなっていくのを感じた。
あの子を守るためには、僕はこいつを殺さなくてはいけない。
そう。話が通じるような相手ではない。
僕は、腰のナイフに右手を添えた。
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