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【第二部】二十八章「故郷の花」
僕たちは教会を出ると、森へ入り坂道を上っていく。老婦人は、やはりあの浜辺で会った時よりも若返っているようで、山を上るその足取りも軽かった。
だけど、ゆっくりしか歩けない僕を気づかい、合わせて歩いてくれているようだった。この人が白杖も無しに、山道を上ることが出来ることに対し、僕は特に疑問は持たなかった。この人の実体はきっと、あの浜辺に座る老婆なのだから。
山道を登っていくにつれ、道端にちらほらと花を見かけるようになった。その花は、かつて僕が灯台近くの森で老婆に言われ摘んで帰ったあの中心が白く、花弁が水色の花。そう、少女の故郷の花だった。
山道を上れば上るほど、その花が道を占める割合は増えて行く。そして、足元のほとんどがその花で覆われて、踏まずに歩くのが困難になってきたころ、やっと森を抜け、開けた場所へと出た。
そこは、一面その花で覆い尽くされた高台の丘であった。向こう側の遥か下には海も見える。
「さぁ、もうそこです」と老婦人は、その丘の中心の方を指差した。
僕は、後ろを付いて歩く。既に花は、踏まなければ一歩も進めないまでになっていた。僕はなるべく、老婦人が踏んだ花の上を歩く。そして、丘の中心へと到着する。
そこには、木で作られた墓標となる十字架があった。まるで故人を慰めるかのように、その墓を中心に、花はぎっしりと咲き誇っていた。いや、そうではなく、この墓が花を咲かせているのかもしれない。
老婦人は墓の少し手前で止まり、僕を振り返る。
僕は老婦人に深く頭を下げ、墓の前まで歩み寄る。
少女の頭に手を添えるように、そっと、十字架の天辺へと手を置いた。
しかし何も感じなかった。当たり前だ。それは……ただの冷たい木である。
僕は目をつむる。風が吹き、花は揺れる。長い間眠っていた気もするが、この体にも、少女との記憶は残っているようだった。
この十字架の下に、彼女が横たわっているのだと思うと、胸が締め付けられた。腹の弾痕が熱を持ちうずき出す。
結局、この子を守ることの出来なかった自分が情けなかった。むしろ守られたのは僕の方だった。
まだ頭の中の言葉も整理されないまま、その重い扉は開かれ、僕の唇は勝手に動き始めた。
「僕はどうすれば良かったんだろう。初めて君を助けた夜に、やはりすぐ城に報告するべきだったのかな。それで故郷に送り返されるくらいなら、それなら、あの灯台で時間を使いながら、少しずつ生き方を見つけて行く方が良いように思ったんだ。
だけどね。だけど……今だから、正直に言うと、君が来てくれたことが、僕は嬉しかったんだ。恋人が亡くなってからはずっと一人で暮してた。それは穏やかで自由な生活だった。一人でも幸せだからという理由で、僕は人と関わることを避けていたように思う。
それが間違いだったとは、別に思ってないんだ。だけどね、君が来てからの方が、ずっと楽しかった。多分僕は、本当は誰かと話がしたかったんだと思う。一人じゃなく、誰かと空間を分け合って、下らないことでも報告し合って、そして、誰かの為にサンドイッチを焼くような生活を、僕は望んでいたんだ。望むことは怖いことだと知っていたから、僕は望まなかったんだ。今はもう、君とお喋りが出来ないから、つまらないね。
僕が君の父親の代わりになれたかどうかは、分からないけど、いや、正直そんなことはどうだっていいんだ。ただ僕は。君が少しずつ元気になってくれてたことが、本当に嬉しかった。だって、良い人間が苦労するばかりの世界じゃ辛いだろ? きっとそんな筈はないって、もっと『世界』は、一人一人のために存在していて良いものなんだ。
そしてその『世界』を見つけることが君の旅であり、僕の旅でもあったんだ。だから君は僕の中に、抱えきれないくらいの多くの意味を残してくれたよ。それは今までだけじゃなくて、これからもまだ僕の『世界』の中で増えていくんだ。きっと君のお母さんにとってもそうなんだよ。君が関わった人全てに、君はそんな風にこれからも、ここに咲くこの花達のように、凛とした姿を見せてくれる。
今はこの陽だまりの中で、ただ静かに休んでいてほしい。いつも、僕の手を引いてくれていたんだから。うん……それじゃあまたね。またすぐ来るから、それまで」
あの日、あの岬で。僕たちが絵を描いていた時のような、一度会ったことのあるような、懐かしい風が海の方から吹き抜けた。
冷たい木の上に生ぬるい涙が落ち、染み込んで行った。
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