【第二部】二十九章 「海のような瞳」

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【第二部】二十九章 「海のような瞳」

 僕が少女の墓の前で膝をついていると。後ろで見守ってくれていた老婦人が、僕の肩にそっと手を置いた。 「あなたのせいじゃない。もともとその子は……私の思念が生み出したものだった。きっとあなたと出会えて幸せだったと思う」    そして、肩に置かれたその手は、瑞々しい若い女性の手であることに気づき、僕は振り返る。  姿  おそらく僕とほとんど同じくらいの年齢で、今まで閉じていた目は開かれ、初めて見るその人の瞳がそこにあった。それはもちろん、あの老婆が若返った姿ではあるが、この墓の下に眠っている少女の、成長した姿でもあるように思えた。 「その少女のことについて、私から少し、お話してもよろしいでしょうか?」と、女性は僕に尋ねる。 「……はい」と、僕は答える。 「教会の壁に埋め込まれていたガラス玉を見ましたか? あれは、もう五十年も前の話になりますが、あの教会で襲撃事件がありました。  やはり教会などは、他の過激な集団から狙われることもあるのです。  先ほど私がお話したあの青年ですが、その時、あの教会にお祈りに来ており、その銃撃に巻き込まれ死んでしまいました。壁に埋め込まれたガラス玉は、その時に空いてしまった穴を塞ぐために、後で子供たちがはめ込んでくれたものです。  あれも、運命だったと言うのでしょうか。いえ、ただ無残だったとしか言えません。私は悲しみに暮れ、自分の無力さを憎みました。私は人間にとって最も大切なことは、罪を許す心だと真っ直ぐに信じていました。しかし、あの青年が殺された時に気付いたのです。  私は平和主義者でも博愛主義者でもなく、ただ問題に立ち向かう勇気のない臆病者であったと。現実はいとも簡単に、私の大切なものを奪っていきました。    そして、その痛みと向き合わざる得ない状況に立たされた私は考えました。何日もまともに眠れず、必死に救いを探し続けました。救いなどありはしないことは、きっと気付いていたのです。  しかし、その気づきを受け入れることは、私にとっては死よりも恐ろしく、真っ暗で、どんな魑魅魍魎が潜んでいるか分からない闇の中へと、身一つで飛び込むような、そんな恐怖と絶望がありました。本当に私は愚かでした。既に地獄だったのに。私の立っているところは、まぎれもない地の底だったのに、救いだなんて笑える話です。    私は修道女(シスター)を辞めることを決意し、その事を長上に伝えました。長上は残念そうに『こんな時だからこそ、今はここに留まるべきだ』と言いました。私を本当に心配してくれていたことは分かりましたが、私は、お世話になりましたとだけ言い、教会を出て行きました。  私はそのまま青年の墓まで行き、墓から骨壺を取り出すと、壺を布袋で包みました。その様子を、長上と一人の修道女が見ていましたが、何も言わないので、私も何も言わず、その壺を胸の前に抱えて立ち去りました。    私は家に着くと、テーブルの上に、持ち帰った骨壺を置き布を解きました。そしてその横に、空の瓶を置き、教会から持ってきた、神を宿すと言われるいくつかの品々を瓶に詰めました。  その品々とは、『子宮への回帰』と呼ばれる儀式で使うものです。私は、このように願いました。 『強かで、悪魔に対して武器を向けることが出来、愛する人を守るための強い意思と勇気を持った新しい命』  それが産み落とされますように。私の命と引き換えでも構いませんから。  それから私は、あらかじめ用意してあった薬を使い目を潰しました。  そして、使えなくなった二つのそれらを取り出し、一つを骨壷の中へ、もう一つを瓶の中へ入れました。そのようにした理由は、二つの思念に「目」を持たせる必要があったからです。  そして瓶は海へと流し、壺は家で保管しました。  本来は『子宮への回帰』は、そういった風に行うものではないのですが、ただ、私のその強い思念……いや、そんな綺麗なものではなく、渇望と言った方がいいでしょう。  私の渇望の一つはこの地に。もう一つは海を漂いました。  やがて、その二つの「目」は、あなたのプシュケー()、そして少女のプシュケーを、それぞれに見つけました。  あなたのプシュケーは青年の遺骨の方へ、その少女のプシュケーは海を漂う瓶の方へ、それぞれに惹かれ、結びつき、宿りました」    そこまで話すと、話を一度区切るように、女性は目を閉じて静かに深呼吸をした。  そして、僕が瞬きをしている間に、姿。  その少女は、「少女」の墓の方を見下ろした。自身の無念を受け継いで散った少女のことを、考えているようだった。 「だけど別に、この少女の半分がわたしで、あなたの半分があの青年だとか、そういうことではないんだ。あなたはあなただし、この子はこの子。ただ、始まりのきっかけがそうだったというだけの事なの。  だけどやっぱりその子の中には、私があの時あの人を守れなかったことの無念が、きっと強く影響してたから、だからこの子は、あんなにも強かったし、自分よりもあなたの命を守ったんだと思う」と少女は言った。    しかし、彼女は何かに気付いたように、少しの間黙り込み、こう言い直した。 「ううん。ごめん違うね。この子があなたを守ったのは、あなたがこの子に、ちゃんと愛情を注いだからだね。きっとこの子が、今まで経験したことのないくらいの愛情だったんじゃないかな。だからだね」 「……ありがとう」と僕は言う。     その少女の顔は、僕が共に過ごした少女と、どことなく似ていた。それは多分、同じ使命を抱えたもう一つの姿であるからだと思う。だけどあの少女よりもか弱く、無邪気でまだ何も知らない、どこにでもいるような、健康な少女の姿だった。 「君はあの青年の事を、海のような優しい瞳だったと言ったけど、君も、同じ目をしているよ」と僕は言った。    少女は「あなたもだよ」と、言って笑った。それから「あのね。あんまり悲しまないで。きっとこの子は、またいつかどこかで、あなたの事を思い出して、それで、再会するための旅に出る筈だから」と言った。 「それは、どういうこと?」と僕は尋ねる。    しかし少女は何も言わず、くるりと回転し僕に背を向けると、一面の花の中を、森の方へと歩いて行った。そして向こうの方から「じゃあね! 幸運を!」と言い手を振った。そして森の中へと姿を消してしまった。    一人残された僕は、少女の墓を振り返りもう一度見つめる。  僕が知っている、これまでの少女の勇敢な姿や、普通の子供らしい姿を、僕は恐れることなく、今やっと鮮明に思い返すことが出来た。  そしてそれは、僕の胸を暖かく満たしてくれた。 「僕も、やるべきことをやらなくちゃね」と、少女の墓に向かって言った。
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