【第二部】 三十章 「再び灯台へ」

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【第二部】 三十章 「再び灯台へ」

 ——僕はその日の夜には、必要なものを鞄に詰め込んでいた。  まだ傷が完治したわけではなかったが、いつまでもここにいるわけにもいかないし、不思議と痛みはほとんど無かった。  家は燃えてしまい、手元にはダガーナイフとコンパスしかなかったが、僕が寝かされていた教会の小部屋の壁には、ランタンと薄手の黒のローブが掛かっていた。  そのローブはおそらく、神父が着るものであると思うが、シンプルな作りであまり聖職者ぽくなく、他に着るものもないので、着ていくことにした。  そして、机の上には「これがマラムです。きっと何かの役に立つから持って行って下さい」という置き書きと共に、ほんのりと青みがかった、約二十カラット程の重さの、透き通る石が置かれていた。  僕はその宝石を手頃な大きさの布で包み込み、鞄にしまった。そして最後にランタンを手に持ち、部屋を出た。    教会正面の入口まで進み扉を開いた。一歩踏み出し、教会の扉を閉め、お世話になったその教会を見上げる。  そして、この中に居たであろう、あの人のプシュケー()にお礼を言う。マッチを擦ってランタンに火を灯し、僕は夜の森へと足を踏み入れた。      ——あの教会は老婦人が言ったように、もう長年誰も訪れていない、人々から忘れ去られた場所だったようだ。またもう一度行きたいと願っても、辿り着けるかどうかすら分からない。    おそらく銃撃事件があった辺りから誰も訪れなくなり、少しずつ廃れてゆき、あの人は周囲の森ごと、教会を隠してしまっていたのだろう。もうこれ以上、悪意に教会を汚されないように。    森を抜けるのは簡単だった。道が手にとるように分かった。それはやはりこの森自体が、あの人の意識の一部だからだろうと思う。僕に、道を示してくれているように思えた。そしてなんと、五分と歩かない内に森を抜けることが出来た。    目の前には海岸……ではなく、最北端の岬だった。目の前に灯台がある。 「どうして……」と僕は思わず呟いた。    僕は、半年前にこの灯台を逃げ出し、父の別荘のある、北西の地方に居た筈だった。そしてその家の前で、あの使いの男に撃たれたのだ。あそこからこの岬まで、随分離れている筈なのに。    僕は振り返り、今自分が出てきたばかりの森を見つめた。森はただ静まり返り、岬からの潮風を受けた葉が、微かに揺れていた。  きっと、この森に再び入り、来た道を引き返したとしても、もう二度と、あの「森の教会」へ、たどり着くことは出来ないのだろう。  ……いや、もしくは。まだ僕はあの老婦人の内側に留まっているのかもしれない。  今朝、教会で目を覚ましてからは、説明のつかない不思議なことばかりが起こってしまっているが、僕はひとまず考えることを止め、灯台下の家の方まで歩き始めた。    ——家には灯りが灯っていなかったが、僕は扉の前に立ちゆっくりと丁寧に、三回ノックをした。  それは、使いの男が来る時にいつもするノックと同じやり方であることに、自分でやってみて気付いた。その気付きは僕を嫌な気分にさせた。長年あの男のノック音を聞いていたので、その音とリズムが、頭に染み付いているようだった。  やはり返事は返って来ない。誰もいないようだ。新たな管理人が居てもおかしくはないのだが。僕は扉のドアノブに手をかけ、ゆっくりと回し、前方に力をかけた。部屋の中に月明かりが入り込み、部屋の様子が少し見える。とても懐かしい匂いがした。    電気をつけ、部屋の様子をじっくり見渡した。その様子は、驚くほどそのままであった。  僕たちがここを飛び出したあの日から、何も変わっていないように見える。半年もの間、誰もここを訪れなかったのだろうか。いや……というよりも、正直僕には、あの日から一日も時間が進んでいないように見えた。 「ただいま」と僕は小さく呟く。    するとそこに。ベッドに腰掛け本を読む少女の影が見えた。また、中央のテーブルでシチューを啜る少女が見えた。中身のない話で盛り上がる少女と、僕の姿まで見えた。  ここではまだ、あの日の僕と、あの日の少女が暮らしているようだった。  今ここで、その二人の様子を見ているこの「僕」は、きっと既に別人なのだろう。一度死んだようなものなのだから。  僕は「お邪魔します」と言い直し、部屋へ足を踏み入れ、扉を閉めた。    僕はベッドに横になり、部屋の中をボンヤリと見渡した。  それから一度目を閉じてみる。  すると、部屋の中にはやはり二人の気配があった。  目を閉じ、ゆっくりと呼吸をし、頭を空っぽにする。意識を、内ではなく外に集中させるよう務めた。  少女が動く気配や小さな物音が、少しずつ、より鮮やかで立体的な音に聴こえてくる。  まるで僕の心臓や血管、脳の細胞までもが、この空間に存在していた少女の情報を、可能な限り正しく、そして純粋に捉えようと努めているように思えた。    これは、いつのことだろう……?    少女は、何をしているのだろうか?  (それは。暖かい日差しが窓から差し込む正午前。少女はどうやら絵を描いているようだった。すぐそこの椅子に座り、ソファの方に向かい何かを描いていた。とても真剣に、何かを観察しながら描いているようだ。  少し描くとスケッチブックから鉛筆を放し、前方の何かを眺める。そしてまた少し描く。時々、消しゴムで修正をした。そして、その上をまた薄くササッと鉛筆でなぞっている。  しかし突然、焦ったように、クルッと体を半回転させ、ソファではなく机の方へと向き、スケッチブックを閉じると、急いで引き出しに閉まってしまった)      ——僕はそこで目を開ける。  少女はその時、何を描いていたのだろう?    僕はベッドから起き上がると、机の前に行き引き出しを開けた。するとそこには、少女の使っていたスケッチブックが一冊入っていた。  そうか。あの時急いで飛び出したから、ここで使ってたスケッチブックは、ここに置いたままだったんだ。  僕はそのスケッチブックを取り出し、開いてみる。花の絵、海の絵、野菜の絵、蝶の絵など、いろいろな絵が描かれていた。見たところ、どうやら風景よりも、物や虫など、近くにある物を見て、細かく描く方が得意なようだった。  それは僕とは逆だった。僕はどちらかというと風景を描く時の方が自然と、あまり何も考えずに描くことが出来る。何かを観察して細かく描くのは苦手である。  だからそうだな。まず、あの子に花を描いてもらい、僕がその後ろの木々や丘などを描けば、バランスの取れた良い絵になるんじゃないかな。多分、僕たちが共に過ごした時間も、そんな風に成り立っていたんだと思う。しかし本当に、こんなにたくさんの絵を描いていたなんて。    スケッチブックはめくってもめくっても、また次の絵があった。このスケッチブックの中にはあの子がここで暮らした日々と、命と、ささやかな幸福が感じられた。  ページが、永遠に終わらなければ良いと思ったが、とうとう最後のページとなった。そして、最後のページをめくる。  そこに描かれていたのは、「眠っている僕の顔」だった。    目の横にあるホクロや鼻の形など、とても上手に描けていた。髪の毛も上手だった。耳も、まつ毛も、とても上手だ。上手なだけではなく、他の絵よりも明らかに丁寧に描かれていた。  きっと時間をかけて少しずつ、僕が寝ている間に描いていたんだろう。僕に見せるつもりだったのだろうか。間に合ったのだろうか。この絵は完成品で、僕が見て良かったのだろうか。  部屋にいる少女の気配に尋ねてみようと一瞬思ったが、やめた。結果は分かっているし余計悲しくなるだけだ。既に、僕と彼女は違う世界にいるのだから。  それは亡霊とかではなく、何と言えばいいのか分からないが、ただ確かに「命を持った気配」がそこで暮らしていた。僕はスケッチブックを鞄の中にしまい、もう一度ベッドへ転がり目を閉じた。      ——今、目を開けば、目の前で少女が、僕の寝顔を描いているところかもしれない。だとしたら今は、目を開けてはいけないな。  そんなことを考えながら、僕は鉛のように重い体を、泥の中へ沈み込ませ、深い眠りについた。  
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