【第二部】 三十四章「南瓜のロールケーキと、三つの不可解な事件」

1/1
前へ
/64ページ
次へ

【第二部】 三十四章「南瓜のロールケーキと、三つの不可解な事件」

「もともとこの家には、三人家族が住んでおった。若い夫婦が二人で農業を営んでおり、可愛い男の子が一人おった。その子は事件当時は確か六歳じゃったと思う。  ワシもまだそのころは五十代じゃった。何度か立ち話くらいはしたことはあるが、ここの夫婦は二人ともいつもにこにこして、誰に対しても親切で優しい人達じゃった。  じゃからここの子も、伸び伸びと健康に育っておったのじゃろうな。村の誰もこの家庭の悪口を言う者はおらんかったじゃろう」  老爺は当時のことを、かなり鮮明に覚えているようだった。 「それで、その事件というのは、何だったのですか?」と僕は尋ねる。 「神父さんは、いや神父さんじゃなかったの。お若い方。あなたはここの村の入り口から、村には入らず反対の方に坂を下って行くと、沼地があることを知っておるか?  そこの沼は危ないのでな、昔からこの村の者は皆、近づかないようにしておったし、子供たちにもきつく言っておったんじゃ。後で見に行くといい。今は柵が立てられている筈だし、それ以上入らなければ大丈夫じゃろうから」と、老爺は僕に言った。 「分かりました。後で行ってみます。それで、その沼が何かこの家に起こった事件と関係があるのでしょうか?」 「その沼に落ちて亡くなったんじゃ。この家のお子さんがな」  老爺の顔に刻まれた深いしわが、その事件の悲しみを、より深く訴えているように僕には感じられた。 「そうだったんですか……」  しかしだとしたらこの家が、あの使いの男の生まれた家だという情報は偽だということなのだろうか? 「その亡くなった子以外には、この家には子供はいなかったのですよね?」 「ああ。ここの夫婦の子供は確かにその子だけじゃった。しかしな、不思議な事件はまだ続くんじゃ。  その子が沼で亡くなっているところを発見されてから、つい二週間ほど経った日の夜じゃった。子を失った悲しみから寝付けなくなっていたここの奥さんは、夜な夜な家を出て、村を散歩することがあったそうじゃ。  その日の夜。奥さんが家の玄関を開けると、目の前の道に、見知らぬ少年が倒れておった。身体は痩せこけ、体中擦り傷だらけで、意識もなかったという。奥さんは旦那をすぐに起こしに行き、状況を伝えた。  それから二人はその子を抱いて城へと向かった。もう村の診療所は当然閉まっておったし、そんな瀕死状態の子を診療所で何とか出来るとも思えんしの。バスがまだ走っておる時間じゃったのが幸いじゃった。  城下町の病院で少年はすぐに治療を受け、翌日の昼には目を覚ました。重度の栄養失調と疲労による気絶だったそうじゃ。  訳を聞くと、少年は、この国の西部にある村に住んでおったそうじゃが、それは誰も聞いたことのない村じゃった。  そして少年は両親に虐待を受けており、三十キロメートル以上離れたこの村まで、自力で歩いて逃げて来たとのことじゃった。村を発見したことで安心し、この家の前で倒れてしまい、そのまま気を失っていたと、少年は夫婦にそう話した。  それから、心優しいその夫婦は、その少年のことを不憫に思い、養子として引き取り、この家で一緒に暮らすようになった。幼い子を失ってしまっていた喪失感が、その少年を引き取る要因となったかどうか、わしには分からんが、まあ気の毒なくらい気の優しい夫婦じゃったから、そう決断したこともまた、自然なことじゃったのかもしれんな」  そこで老爺は、ぬるくなり始めたコーヒーを一口飲み、喉を潤した。それから、皿の上の美しい橙色のロールケーキを、フォークで四等分にし、その一つを口に入れた。僕もその様子を見ながらコーヒーを一口飲んだ。コーヒーは冷めたせいで少し酸味が際立っていた。  ロールケーキを飲み込んだ老爺を見て、僕は質問をした。 「なるほど。それで今はもう、その養子となったお子さんと共に、ここの夫婦はどこか別の所に、引っ越されたのですか?」 「いや、違う。ここの家族に起こった不可思議な事件は、まだ最後に最も謎と言える出来事があったんじゃ」 「それは、一体何ですか?」 「ある日突然いなくなったんじゃ。家族三人とも。家の中は全てそのままの状態で、神隠しにでもあったかのように、三人の人間だけがある日突然、パッと居なくなったんじゃ。そう……あれは確か、その少年がここの家に引き取られてから、五年が経ったくらいのことじゃ」 「何ですって……? それは、事件にはならなかったのですか?」 「そうじゃな。家族全員が居なくなったもんじゃから、特にだれも城に通報する者はおらんかったのかもしれん。村の者達も夜逃げか何かと思った。特に家の中も荒らされたりしておった訳ではないから、きっと何か事情があって、夜のうちに出て行ったのだろうということで、私たちは特に何もしなかったんじゃ」 「なるほど。そうだったのですね。もうここの家に関する事件というのは、これで全てですか?」 「ああ、ワシの知っていることは、これで全てじゃ」 「すみません。ちなみにその養子となった少年とは、おじいさんは当時、話されたことはありますか?」 「ああ、何度かある」 「どんな子供でしたか?」 「とても礼儀正しい。頭の良さそうな子じゃった。線が細く、いつも眼鏡をかけておったな」 「なるほど……そういうことでしたか」と言い、僕も南瓜のロールケーキを四等分し、一つを口に入れた。 「丁寧に説明して頂いて、ありがとうございます。それと、本当に絶品ですね。このケーキ。この後の用が無ければ、お土産に持って帰りたいくらいです」 「また時間のある時に、いつでもゆっくり来たらええ。城で働くのは大変じゃろうから、たまにこういう貧しい村に来て、休養しなされ」と言い老爺は微笑んだ。  その微笑みは、この村の美しさや、物理的ではない豊かさが確かに根付いていることの、象徴であるように思えた。 「今抱えている問題が終われば、また来たいと思います」と僕は言った。
/64ページ

最初のコメントを投稿しよう!

53人が本棚に入れています
本棚に追加