【第二部】三十五章 「沼の底」

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【第二部】三十五章 「沼の底」

 僕は村から出ると、坂道を下って行った。  その方面には人家などは全く見当たらず、放置されたおかげで伸び伸びと育った背の高い雑草が生い茂っていた。かろうじで道のように思える場所を歩いて進み、坂を下り終えると、老爺の言っていた沼地へと辿り着いた。  足元はぬかるみ、ガマやイグサがそこら中に生え、中にはモウセンゴケのような奇妙な植物もあった。所々にある水溜りを踏まないよう進んで行った先に、ぼろぼろの掘建て小屋があった。  何の用途でここに建てられたのかは分からないが、長年放ってられたその小屋は斜めに傾いており、この緩い地面に、少しずつ沈んで行っているようにも見えた。  そして、その掘建て小屋の向こうに、直径十数メートルほどの沼があった。柵で周囲を覆われているところを見る限り、おそらくここが老爺の言っていた、三十年前にあの家の子供が落ちて亡くなった沼だろう。  しかしそれは、僕が予想していたよりも遥かに小さな沼だった。水は濁っているせいで水深は分からない。    僕は目を閉じ、あの日浜辺で会った老婆の言葉を思い出していた。 「目を潰すことによって色々なものが、見えるようになった」という、その意味を考える。  そして、ここで命を落としてしまった幼い子供のことを想像する。      どの辺りから落ちたのか?  一人でここに来ていたのか?   なぜこんなところにいたのか?  そして死ぬ間際に何を見たのか?    僕は意識を集中し、浮かんでは消える様々な映像を追いかけた。何か少しでも真実の手掛かりになるような光景を見られることを願い、目まぐるしく回り続けるフィルムの中から、真実と感じられるものだけを選定して行く。 「よし」    僕はローブを脱ぐと、その辺りの木の枝に掛けた。そして肌着の上から、村で買って来た雨具を身につけ長靴を履いた。沼へと足を踏み入れていく。    ——数時間後。僕はもう一度村に戻り、先ほどの老爺のもとへ向かった。  そして事情を説明し、数名の村人と道具を集めてもらうようにお願いした。  老爺は僕の格好を見て「うちの浴室を使っていいから、一度シャワーを浴びなさい」と言ってくれた。僕は老爺の親切を受け取り、シャワーを浴びることにした。    シャワーを浴び終え、再び黒いローブに着替え外に出ると、老爺と五人の中年の男達が道具を持って集まってくれていた。  僕は「みなさんありがとうございます。こんなよそ者の話を信用して頂いて感謝しています」と言い、再び沼地へと向かった。    沼に着くと、僕は五人の男達にある程度の場所を指差して、「その辺りです」と教えた。  水深は深いところで七メートル程だった。底には大きなドラム缶が沈んでおり、その中に、二名の遺体が押し込まれていた。  そして、浮かび上がらないよう隙間に、大量の石や土を詰めて蓋がされていた。  沼の底に沈められていたこの親切な夫婦は今やっと、二十五年ぶりに陽の下に出ることとなった。これで、少しでもこの二人のプシュケーが報われてくれることを、僕は願った。    引き上げを手伝ってくれた男の一人が、僕のもとにやってきてお礼を言った。 「ありがとう神父さん。俺はこの旦那とは若い頃、よく飲み交わした仲だったんだ。奥さんもよく気のきく利口な人だった。ありがとうな」 「はい……発見することが出来て良かったです」    僕の隣で、その引き上げを見守っていた老爺が、静かに涙を流していることに気が付いた。  その涙はまっすぐ頬を伝うことはなく、何層にも刻まれた老爺のしわに沿って、斜めに進んだり、広がったりしていた。 「なぜ、罪のない人達が、こんな目に遭うのじゃろうか?」と老爺は言った。「あんたはどう思う? 何かの大きな道筋の途中には、必ず残酷な側面がなければいけない理由でもあるんじゃろうか?」 「分かりません。ただその『残酷な側面』というものに、僕自身、何度か遭遇したことがありました。その時に身を挺して僕を守り、死んでしまった少女がいました。  また、僕の為に心臓を捧げ、何も言わず去った人がいました。悲しみを伝えるために、自らの光を切り取った人もいます。彼女たちの行動は全て、おじいさんの言うその『残酷な側面』への抵抗であったと思うのです。  彼女たちの抵抗があったおかげで、僕は今こうして生きているし、ここにいます。  僕は、彼女たちの意思を引き継いでいるつもりです。そして今度は、僕が立ち向かう番だと思っています。そうするべき理由は、『残酷な側面』は逃れられない絶対的なものではないからです。  数ある可能性(過去や未来)の中に僕たちは生きていて、その中には、大切な存在があるべき姿で存在している軸がある筈です。そこに着地するために、僕は今、抵抗を続けています」    と、そう発した言葉が、僕だけの言葉ではないことは明らかだった。  それはあの老婆や、少女や、恋人や、少女の母親や、五十年前に教会で亡くなった青年も、今もどこかに存在する、「それぞれの世界から集められた思い」達の言葉であり、希望であった。 「そうか。あんたの言う事もよく分かる。あるべき姿を取り戻すことが出来れば、それは多くの人にとって、きっと幸福な世界となるじゃろうな」と、老爺は言った。
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