【第二部】三十七章「学者の住む館へ」

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【第二部】三十七章「学者の住む館へ」

 ——僕は、沼地から村に戻ると、老爺に教えてもらった、村の裏山にあるという、図書館へと向かっていた。  老爺と話をした家のある住宅地を、更に奥に抜けて行くと、緑地へと突き当たった。その一か所に、奥へ進んでいけるように林道が設けられており、なだらかな上りの斜面に、一直線にずっと上の方まで、木の板と丸太で組まれた階段があった。  二人で並んで歩けるくらいの幅の階段である。僕はその階段を上っていく。    正直失礼ながら、こんな小さな村に図書館があるとは思わなかった。老爺が言うには正確には図書館ではなく、数年前まである学者が住んでいた、小さな館であるという事だった。  そこには、ちょっとした図書館並みの量の書物があって、村人は図書館と呼び、定期的に訪れ利用しているとのことだった。    木の階段をしばらく上って行くと、今度は足元は石の階段へと変わった。一人分ほどの幅しかない狭い通路で、左側は急斜面となっており、落ちないように、鉄のパイプと細い針金で作られたフェンスが、その急斜面に沿って立てられていた。  フェンス越しに下の方を見ると、先ほどまで僕がいた住宅地や、村の入り口。また沼地の方までも、見下ろすことが出来た。思ったよりもかなり上って来ていたようだ。  進行方向に視線を戻し上の方を見上げると、木々の向こうに館が見えた。もうすぐだ。石段はすぐに急斜面の方からは離れて行き、館の方へと続いて行った。そしてその館をぐるりと一周するような経路で回りながら上り、やっと館正面の門へと辿り着いた。    そこもまた、地面を石で固められた敷地となっていた。この大きな緑地の一部が、その学者と呼ばれる人の、住む土地となっているようだ。館自体は、そこそこの大きさだった。下の村にある家屋に比べれば倍以上の大きさであるが、図書館と呼ぶにはかなり小さいだろう。  おそらく十五分くらいは上って来たが、こんな不便なところに館を作るなんてきっと、変わった人物なのだろう……が、しかし。最北端の灯台下に住み、一人で野菜を作ったり、絵を描いたりしていた自分も、まあ対して変わりはないのかもしれないと思い、先入観を持つことは、あまり意味のないことなのかもしれない。と思い直した。    門は開きっ放しになっており、フランス落としの先が、地面に付けられた落とし受けに入った状態で、錆びてしまっていた。きっともう何年もこの門は、この状態のままなのだろう。  僕は門を通ると、館の扉の前まで歩いた。そこには看板が立てられており、「午前九時から午後六時まで、鍵は開けていますので、ご自由にお入り下さい」と書かれていた。僕は扉を開け中に入っていく。    玄関スペースは、正方形の空間となっており、左右にそれぞれ一つずつ、隣の部屋へ入るための扉があった。正面の左には、おそらくキッチンへと続く、扉のない入口があり、右には二階へ続く階段があった。    僕は「ごめんください」と、声を出してみた。    数秒経ってから「はーい」と女性の声が、上階から聞こえてきた。    そして降りて来たのはなんと、背の高い美しい女性であった。艶のある長い黒髪は、彼女を大人っぽく見せていたが、おそらく僕よりも若いだろう。 「なんでしょうか?」と女性は僕に尋ねる。 「ここに来れば、色々な書物を読ませて頂けると伺ったのですが、あなたはこの館の持ち主の方ですか?」 「はい。元は父が建てた家ですが、三年前に亡くなったので、今はそういうことになりますね」 「そうでしたか。ええと、利用方法などがあれば教えて頂きたいのですが」 「決まりは特にありませんよ。別にただの家ですから。あえて言うなら、本を丁寧に扱って頂くことですかね。あとは好きに読んで頂いて構いませんよ」と言って、彼女は微笑んだ。  僕は何となく、村人達があんなにも大変な坂を上ってまで、定期的にここを訪れる理由が分かった気がした。高齢の人が多い村だし、こういった若く美しい女性は、街の方に行けば珍しくはないが、ここでは貴重なのだろう。 「分かりました。歴史書はどこにあるでしょうか?」と僕は尋ねる。  彼女は、左の部屋を指さし「そっちが歴史、地理、語学などです」と言い、今度は右の部屋を指さし「そっちが宗教、哲学、社会科学、文学などです。私は二階に居ますので、何か分からないことがあればまたお呼び下さい」と言い、二階の部屋へと戻っていった。  僕は左の部屋の扉を開ける。中は十畳ほどの広さで、部屋の四方八方に本棚があり、様々な書物が隙間なく、本棚に詰め込まれていた。  ある程度の間隔で「歴史、地理、語学」と書いたプレートが差し込まれている。さっきの女性は、本は丁寧に扱って下さいと言っていたが、ここにある本の大半は既に、色あせていたり、角がすり減っていたりしていて、綺麗な状態の本の方が少なかった。  僕は歴史のジャンルの辺りから、比較的新しそうな物を選んで引き抜いた。隙間なく詰められているせいで、引き抜くのにそれなりの力が必要だった。同じ場所にもう一度この本を入れられる自信が、僕にはなかった。    部屋に一つだけ置いてある椅子に座り、僕はその本を開く。七年前に発行された本で、様々な国内の事件の記録が記されている本であった。  目次を開き、年代別に書かれた色々な事件を目で追っていく。  三十年前。あの家の幼児が亡くなり、使いの男が養子として引き取られた年と、同じ年に起こった事件を探す。 【役場、立てこもり事件】 【南西部農村児童、沼地溺死事件】 【少年誘拐、物干し竿吊り晒し事件】 【村八分民家放火、女性焼死事件】 【路面バス毒物散布事件】    ここにある記録では、同年に五つの事件記録が記載されていた。  その中の「村八分民家放火、女性焼死事件」と言う事件は、「南西部農村児童、沼地溺死事件」の、ほんの一週間前に起こっており、またその事件現場もここから、近い村だということが分かった。  歩いて移動できない距離ではない。もしかしたらその村こそが、使いの男の本当の、生まれ故郷かもしれない。僕はその事件について書かれた頁をめくる。 【○〇年〇月○日 深夜一時十七分。  西部の村の村民より「家が燃えている」との通報が保安課にされた。城は現場近くの交番所へ連絡し、消火活動を要請。  それと同時に五名の衛兵を、すぐに現場へ向かわせた。駆け付けた衛兵と共に消火活動を実施。一時五十二分に鎮火。  屋内にて、椅子に手足を縄で縛り付けられた女性の焼死体を発見。後の調査で火元はそこからであったことが判明。  また、同居していた十三歳の息子が消息不明となる。  保安課は当初、金銭がなくなっていたことから強盗、放火殺人、また誘拐事件として取り扱った。しかし、外部の人間が侵入した形跡はなく、村人の証言でも不審な人物などの情報はなく、消息不明となった息子が、何らかの形で関わっている可能性があるものとして、捜査の方向を転換していったが、現在でも有力な情報は掴めておらず、迷宮入りとなった。    また、村人の証言から判明したことは、事件のあった家庭は、事件の起こる三年前に夫婦が離婚しており、母子家庭であったという。  そして、焼死体で発見された、その家庭の母親は村人に対して素行が悪く、そのせいで息子もろとも、村八分状態にあったという。  しかし息子の方は、生まれながらに頭脳明晰であり、一部の村民からは家庭に招かれ、勉学の指導を頼まれることも度々あったという。  その息子が最後に目撃されたのは、事件の三日前。同村の十五歳の少年のもとへ訪れ、勉学の指導を行った際に、その家庭の母親が、少年が帰る際、玄関で挨拶を交わしたのが最後であった】    僕は本を閉じ、膝の上に置いた。    この行方不明の少年が、使いの男である可能性は高いと思う。  この村で殺された夫婦同様に、使いの男はそこを去る時に、両親となった人物を殺す傾向があるのかもしれない。もちろん断定は出来ないが調べてみる価値はある筈だ。  この放火事件のあった村からこの村まで、休憩を入れたとしても、徒歩で一日半もあれば辿り着くことは出来る。  そしてあの沼で、あの幼児が水死体で発見されるまで五、六日。それから更に、あの家の前で衰弱した状態で発見されるまで二週間あった(と老爺は言っていた)が、その間はどこに身を置いていたのだろう?  分からないが、一度この放火事件のあった村に行ってみれば、何か分かるかもしれない。    と、その時。 「お探しの本はありましたか?」と、後ろから声がした。  振り返ると、先ほどの、館の美しい女性が、扉のところから顔だけをひょこっと覗かせていた。 「はい。ありました。それにしても、本当にすごい数の本ですね。確かに村の人達から図書館と呼ばれる理由も分かります」 「父の趣味のようなものです。父は物理学者だったのですが、その他にも色々なことに興味があって、とにかく四六時中本を読んでいるような人でしたから」。そう言いながら、彼女は部屋の中へと一歩足を踏み入れた。「私も幼い頃から本を読むという事には慣れていましたが、父ほど何かに熱中する程でもないし、ここの書物は私には持て余すものばかりだったので、ここを開放することにしたのです」 「なるほど。そういう経緯だったのですね。しかし……お父さんが物理学者だったのに、物理学の本は置いていないのですね」 「いえ、科学系の本は全て二階に置いています。主に量子力学の専門書ばかりですが、あまりそういう本を求めて来る人はいませんし、主に私が読んでいるので、基本的に二階に置いているのです」 「お若いのに、変わった生活をされているのですね。下の村に下りて行くことはあるのですか?」 「もちろんあります。父は本当に典型的な学者タイプの人間だったもので、基本的には、他人を避けて生きるような人間でした。だからこんな、秘境のようなところに家を建ててしまいましたが、私はそれほどでもありません。この村の人達は暖かいし、食べ物だって美味しいものばかりです」  僕は、彼女を最初見た時、正直この村の人にしては、少し異質だなという印象を受けたが、どうやらそうでも無いようだ。話をすればする程、この村の人達の持つ寛容な精神が、彼女の中にもちゃんとあることを、僕は感じた。 「本当に、僕もこの村は良いところだと思います。多分僕は、どちらかと言うと、あなたのお父さんのように、他人との接触を避けるような人間だと思います。だから……この村にいると、少しばかり自信を無くしてしまうのです」 「面白い神父さんです」と言い、彼女は笑った。「私の父は、いくら人から孤立していても、全く自信を失わない人間でした。だけどあなたは、自分でそのように感じてしまう時点で、きっと、人との繋がりが自分にとって必要であると分かっているのだと思います」 「それは確かに、そうかもしれませんね」と言い、僕も笑った。 「だけど、ここにこの村以外の人が来るなんて、本当に久しぶりの事ですよ。それに神父さんが来たのは、初めてのことかもしれません。北の、国道沿いにある教会から来られたのですか?」と彼女は言った。 「いえ、僕は神父では…………」あり、ま………………  その時。何かが頭の中で弾ける音がした。 「〇Δ×〇?」 「〇Δ×〇**!?」 「だ……じょ……で……」 「ど............さい………………」  な。にが オ こた  ?      こ こは ボク ハなニモの     ロウふ じん、     もりノきょ、うかい。         しょウじョのか。はカ。ハ、ドコニあル……     「……か? 聞こ……か?」 「………………」 「どうな……ま……たか⁉」 「………………」 「見えていますか?! 瞬きをして下さい!」 「……す」 「え! 聞こえますか?!」 「き……えま、す」 「私が見えていますね?!」 「み、え……ます」  気がつくと、彼女の顔がすぐ目の前にあった。僕は椅子から落ちて、地面に尻もちをついていた。倒れないように彼女が反射的に、肩を支えてくれたのだと理解する。 「す、すみません! ごめんなさい」と言い、僕は彼女から急いで離れ、立ち上がり、椅子に座った。 「驚きました。今医者を呼びますね」と彼女は言う。 「い、いえ! 大丈夫。もう大丈夫です」と僕は答え、彼女の目をしっかり見て、小さく笑ってみせる。 「だけど……あなた、目を開けたまま急に倒れて、しばらくその状態だったのですよ」と、彼女は言った。 「え、でもしばらくって言っても、一瞬でしょ?」 「一瞬ではないです。三分はありました。脈や呼吸が正常だったから躊躇いましたが、もう電話をかけるところでした」 「三分も? そんなに。すみません。だけど、もう本当に大丈夫なので」 「以前も、こんな風になったことがあるのですか?」と、彼女は心配そうに尋ねる。 「いえ、初めてですね。だけど別に、体がどこか悪いわけではないのです。ただ、何というか、フラッシュバック……に、近いことなのかもしれません。いや、んん。正確には違うと思うのですが、上手く説明が出来ません。ただ、もう大丈夫ということは確実に言えます」と言い、僕はもう一度彼女の目を見て、大丈夫だという顔をみせた。 「……そうですか」と彼女は、僕の言葉をひとまず、受け入れてくれたようだった。 「ところであの、さっき、国道沿いの教会と言いましたか? 僕が倒れる直前に。そこは、ここから近いのでしょうか?」 「え、ええ。まあ近いですよ。北から城に向かう方面のバスに乗っていけば、すぐです」 「もしかしてそこは、広い荒地の中に、農園のように等間隔に植樹された木々があって、その中心にある教会のことですか?」と僕は尋ねる。 「そうですね。確かそんな感じだったと思います。私も、曖昧な記憶ではありますが」と彼女は答えたが、やはりまだ心配そうな顔をしていた。 「すみません。急に倒れてしまって。もう本当に大丈夫なので」と僕は言う。 「しかし、ちゃんと休まれていくべきです。帰りは長い坂道になりますし、もし途中で倒れでもしたら大怪我に繋がります。二階にソファがありますから、そこで横になっていって下さい」 「しかし……」と僕は断ろうとしたが、彼女は言葉を遮った。 「今日はもうバスはありませんよ。どちらにしても今日は、この村に泊まって行くしかないのですから。それなら、ここで一晩泊まって、明日の朝に坂を下った方が良いと思います」と彼女は真剣な眼差しで言った。「夜御飯は二人分用意するのも、そう変わりませんから」 「では、あなたの迷惑にならないなら」  僕は彼女に半ば押し切られる形ではあったが、彼女の提案をありがたく受けることにした。
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