【第一部】三章「涙」

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【第一部】三章「涙」

 ——少女が目を覚ましたのは翌日の朝だった。  僕は眠らずに彼女の様子を見ていた。朝になり陽が昇るころには、彼女の顔は赤みを取り戻し、僕もウトウトし始めていた。  彼女は目を覚ますと、ここが何処なのか把握しようと目だけをきょろきょろと動かした。そして、ソファに座っている僕の存在に気がつく。 「体の具合はどうだい?」と僕は尋ねる。 「頭が……ボンヤリします」と少女は答えた。 「ちゃんと手は動く?」と尋ねると彼女は、腕を少し浮かせ、手を握ったり開いたりしてみせた。 「大丈夫そうだね。じゃあひとまず水を飲んで、少し何か食べよう」と僕は言う。  しかし彼女は、今は何も食べたくないと言うので、じゃあせめて水は飲まないとダメだと僕は言った。  今彼女の体はおそらく、水分をかなり失っているはずだった。僕は、この家にある一番大きなグラスに水を注いで彼女に手渡した。  彼女は黙って受け取ると、一口だけ飲み込んだ。すると、身体が反応するように大きなグラスに入った水をゴクゴクとあっという間に飲み干してしまった。  僕は、まだ要るかと尋ねたが返事がなかった。  最初、無視されたのかと思ったが、そうではなく、返事をすることが出来なかったようだ。  彼女は深々と泣いていた。  まるで今飲んだ水がそのまま目から溢れるように、とめどなく涙は流れ続けた。  無理もないだろう。よほどな事情があったことくらい、僕にだって察しがつく。あんなにも寒い夜に、一寸先も見えない暗い海を子供一人で漂うなんて、並大抵の事態ではない。 「水はまだいっぱいあるから好きなだけ泣いたらいいよ」と伝え、顔を拭くためのタオルを手渡した。  僕は彼女が落ち着くまで一度、表に出ていようと思い立ち上がったが、彼女が僕のシャツの裾を掴んでいることに気がつき、隣に座り直した。  それからしばらく、僕は待った。  少し落ち着いてきた様子の彼女を見て、迷ったが……思い切って訳を聞くことにした。 「もし嫌じゃなければ、何があったのか話してくれないか? 一人で抱え込むよりは良いと思うんだ」  そう言うと、彼女は一瞬考えるような様子を見せたが、海を漂うこととなったその経緯を話し始めた。 ==========  彼女の話では。ここから北に二十キロメートルほどの地点に、彼女の故郷の小さな島国があるとのことだった。  漁業が盛んな国で、湊町はいつも賑わい皆平和に暮らしていたという。  しかし突然、ある一人の男の体に異変が起きた。  体から水分が無くなったみたいに、男の体はカラカラになり、目は霞み、数日後には歩くのもやっとになった。  そして、十日後にその男は死んだ。  気がつけば、彼と暮らしていた家族や仕事仲間にも同じ症状が現れ始めていた。  みるみる内にその病気は国中に広がっていき、気がつけば疫病と呼ばれるようになった。  既に国民の三割以上が感染し、その一割以上の人間が亡くなっていた。  感染の広がるスピードは凄まじく、新種の病気のため特効薬もない。症状の出た者はただ死を待つばかりだった。  そして、少女の両親もまたその疫病に感染し、助かる見込みがなかったという。  島から出ることは条約により禁止されていたが、少女の母親は、まだ感染していないこの子を国から逃がそうと、彼女を小舟に乗せ海に出させた。  しかし、運悪く数時間後には大雪が降り出し、気を失っている内にここに流れ着き、僕に発見された。 ==========  これが少女が僕に話した、彼女自身がこの灯台に流れ着くまでの一連の出来事だ。 「……なるほど、そういうことだったのか」  僕もここより二十キロメートル程北に、小さな島国があることは知っていたが、あまり詳しくは分からなかった。  それ程の事態なら、僕の耳に入っていてもおかしくはないと思うのだが。 「すぐに出て行きますから」と、ふいに少女は言った。  その言葉に、僕は少々面食らう。 「どうして? 感染を気にしてるならもう手遅れだよ。昨晩君を散々看病したし、君の体を暖めるために、換気だって最低限しかしてなかったんだ。  それに、君は感染していないから、お母さんが逃してくれたんだろ?」 「だけど、今発症していないだけかもしれません」 「そうか。まあ僕はほとんど人に会わない生活をしているから、誰かに移す危険もないし、もしそうだとしても、死ぬのは僕だけだ」  そう伝えると彼女は、驚いている様でもあり、戸惑っている様でもあった。 「とにかく、それなら尚更今はここにいて欲しい。君が安全と分かるまでは僕も国の見張り人として君を、街に行かせるわけにはいかないんだ」  それを聞いた彼女は何も言わなかったが、僕の顔から目をそらした。僕は続けて言う。 「だからひとまず、十日間くらいはここにいてくれないか? 君のことは国には黙っておくよ。その後は好きにしていいから。  出て行きたかったらそれでいいし、ここに居たければ、しばらく居てもいいから」 「……分かりました」と少女は俯いたまま答えた。  僕は、彼女の隣から立ち上がる。 「辺りを散歩してくるよ、君も行く?」 「今はいいです」と、彼女は言った。  僕は家から出ると岬の先端の方まで歩いて行き、朝の潮風に当たりながら考えた。  急に大雪が降ったり、かと思えば十年ぶりに舟が観測され、そこにはなんと少女が乗っていたりと……  今までの静かな日々は、この日のための序章だったのだろうか。  足元には、昨晩降った場違いな雪が積もっていたが、朝の日差しと、この島本来の気候により、既に多くは溶け始めていた。
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