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浦霧は妻帯者だった ──
そしてここにいる茄乃はそれを知らされていなかったということなのだろう。
瀬髙はいつの間にか自分こそが裏切られたような気になって、ハンドルを握る手に力をこめていた。
「やはりお会いになった方が。
僕が言うのも何ですが慰謝料くらい頂いたらどうですか?
もしもあの二人がご夫婦だとすれば、法的には茄乃くんが圧倒的に不利ですが、引っ越し直前まで彼が妻帯者だと知らされていなかったのなら話は別です。
お邪魔でなければ援護射撃くらいはさせて頂きますよ?」
だが、どうやらこういったシチュエーションでの瀬髙と 茄乃の反応は違ったようで瀬髙が表情を険しいものに変えたのに対し、愛らしい顔を歪ませる茄乃は、
「ぅ、、、うっ、ぅぅ」
言葉もなく頭を垂れたまま肩を震わせている。
「茄乃く、、、」
肝心の客がこんな状態で物件案内などできないと判断した瀬髙は、近くにある森林公園脇の駐車場に車を停めた。
泣き続ける茄乃を尻目に車から降り、近くの自動販売機から温かい飲み物を買って車に戻る。
「茄乃くん、すみませんでした。
お客様の私的な部分に首を突っ込んでしまいまして。
良かったら一口でも飲んで下さい、落ち着くと思います」
まずは詫びてから鼻をすすって目を擦り続ける茄乃にドリンクを差し出し、
続けて何を言おうかと慰めの言葉を巡らせている最中、ようやく顔を上げて頷いた茄乃の顔を見た瀬髙はぎょっとして身を引いた。
「あのっ、目っ、目の周りが、、、」
涙で濡れた目の周辺、特に下から頬にかけて まだらに色濃く滲み、
しかもその滲みは墨を溶かしたような黒で何とも異様な有り様だった。
驚く瀬髙に一瞬怪訝な顔をした茄乃は『ああ』と何かに気づいて首を伸ばしバックミラーを覗き込んだ。
「落とすの忘れてた」
細い指先と袖口で目元を拭った後、汚れた袖をまじまじと見つめてから突然、
「も~早く言ってよ」
可笑しそうに笑った。
そうして力が抜けたように肩を落として顔を上げ、『はーっ』っと大きく息を吐き出し、瀬髙が渡したドリンクのキャップを開けてゴクゴクと飲み干した。
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